つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

進歩しているのに不幸せかもしれないぼくら

経済学を全く学ぶことがないまま医師になり、何度も経済学を勉強しては挫折を繰り返し、最終的に医師4年目になってから1年間しっかりと(つくば市立中央図書館にほぼ毎日通いながら)経済学を勉強することで、ようやくほんの少しこの世の成り立ちが分かってきたような気がする。医師にとって経済学は馴染みのない学問分野であるが、勉強した印象としては、しっかりと勉強する価値のあるものであると言える。

 

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資本主義はどこで誤ったのか、そのヒントを示唆する一冊

 

経済学が教えてくれるのは、この世の奇妙なカラクリである。「努力は報われる」という言葉が信じられている中で、なぜ実際には努力が報われない仕組みになっているのか。どうして技術が進歩しているのに、生活が余計きつくなって幸せを奪われている気がするのか。経済学がこれらの問題を解決する方法を提供してくれるわけではないのだが、なぜそんな酷い有様になっているのかのヒントは教えてくれるだろう。

 

この世のカラクリを知ることは、強者から少しでも搾取されないようにポジショニングを工夫することの理論的な根拠とか動機にはなるだろう。そういう意味で、経済学を学ぶ必要がある。ポジショニングを工夫するというのは、レッドオーシャンを避けるという意味も含んでいるわけだから、経営学も学ぶ意義はあると思うが、経済学と経営学は(ある意味)同じ現象を違う視点で見た学問とも言えてしまうので、素人目にはどちらから入門しても本質的な差はないのではという気がする(誤解を恐れずに言えば、競争を生かそうとするのが経済学で、競争を回避しようとするのが経営学)。

 

それにしても、なぜぼくらは幸せになれないのだろうか。なぜ満ち足りた気持ちになれないのだろうか。答えは割と単純、「幸せが相対的な概念だから」。生活水準が上がると、もっと生活水準の高い社交が視界に入ってくるわけで、「隣の芝生は青い」とばかりに満ち足りない気持ちを生じてしまうものなのである。地位が上がっても幸せになれない理由は、こういった背景に基づいている。

 

逆に、「絶対的な幸せ」という概念を持っている場合は、相対的な幸せを追い求める人々よりかは容易に幸せになれるのではないかと思う。具体的には、「涼しい書斎を持っていて、蔵書があって、四季を愛でながら晴耕雨読の生活を送る」みたいな自分なりの確固たる幸せのイメージを持っていたら、幾分も心穏やかに暮らすことができるだろう。こういった「絶対的な幸せ」という概念は、一体どこに消え去ってしまったのだろうか。

 

ここに、幸せを測定するパラメーターが幾つかある。例えば、衣食住がどの程度満ち足りているか。食べ物を多く持っている人と、ほどほどに持っている人とでどちらが幸せかと言われると、多分そんなには差がない。なぜかといえば、どちらもお腹いっぱいになった段階で幸せ度が頭打ちになるから。必要最低限度の服や家があれば、同じように、そこからグレードアップしたところで幸せ度はさほど変わらないだろう。人間の活動には限界があるので、着きれない大量のドレスを持っていたり、使わない部屋の多い豪邸を持っていたりしたところで、しょうがないのである。畢竟、衣食住などをパラメーターにしている限りは、それなりに幸せになることができる。

 

ところが、この幸せ度の頭打ちを突き破るものがこの世には存在する。それが貨幣である。衣食住などについては多く持っていてもしょうがないので「足るを知る」という観念(注釈)も比較的容易に受け入れられるが、貨幣に関しては多ければ多いほどよい。隣の人と比べられるのだからね。この貨幣(+ それにより規定されるモノの値段)というものが、幸せを相対的な概念に変えてしまったのではないかと感じる。そうなってしまうと、「足るを知る」という観念も受容困難なものになっていく。

 

「足るを知る」という観念を失った結果として生じたのが、余暇の消失である。技術が発展すると仕事を楽にこなせるようになり、その分だけ時間を浮かせることができるが、その浮いた時間をさらなる貨幣の獲得のために仕事するという考え方が当たり前になってしまっている。なにしろ、貨幣は多ければ多いほどよい(気がする)のだから。素人考えではあるが、資本主義の成長に歯止めがかからなくなっている理由のひとつもこのあたりにあるのではと思う。

 

さて、ぼくらの仕事はどうあるべきだろう。頭を使って無駄な戦いをはぶくことで、「医者やコメディカルが楽した結果、患者さんがもっと楽になる」というのが理想的な医療だとItoは考えていて、病院総合内科でもこのコンセプトを実験的に取り入れているところなのだが、浮いた労力は間違っても「もっと多くの患者さんを受け入れて……」とか「ハイボリュームセンターに……」とか、あとは「教育病院としてのブランドを」とか、そういった方向に使ってはいけないなと考えている。そんなことをしたら現場がどんどん苦しくなって、当初の目標である全員の幸せが遠ざかっていくことなど、目に見えている。それに無秩序な事業拡大をした企業がこれまでどうなってきたかの歴史を医療現場はもっと知っておくべきだ。

 

むしろ、浮いた労力は余暇として使うべきではと思うのだ。怠惰ではなく、余暇(leisure)。メンバーが余暇を自己実現へと上手く使うことで、医療現場に多様性が生まれてくる。様々な考え方があれば、ガラパゴス化の酷い日本の医療現場も、もう少しは柔軟になれるのではないかと思う。新しいことにチャレンジするにしても、余暇とそれに伴う精神面の余裕が必要だろうし、こういった余暇が結果的に生産性の向上につながっていくことにも結果的には(パラドキシカルに?)なるかもしれない。

 

余暇の効用は他にもあるだろう。日本の場合は、定年までほぼ100%労働で、それ以降はほぼゼロ労働になるみたいな人生になってしまっていて、正直なところ定年前も定年後も地獄である(これが人生100年時代になると今以上に地獄だ)。しかし、余暇を上手く取り入れれば、長く健康に働くことができるのではないか。理想としては、墓場に入るまでずっと50%とか60%くらいの力で働く、みたいな。(データの裏付けはないが)定年前はもっと余暇があった方が健康だろうし、定年後は少しくらい仕事している方が健康だろう。日本では暫くの間、そういう働き方は不可能だと思うが、せめて自分の関わる現場だけにはそういう考え方を根付かせていきたいな、なんて考えているところである。

 

(注釈)拡大解釈されそうなので補足すると、Itoにとって「足るを知る」というのと「清貧」とは全く別の概念である。生活を切り詰めなくて済む程度にはお金があった方が良いくらいにItoは思っている。Itoが良いと思うのは、あくまで「腹八分目」であって、「痩せ我慢」とか「武士は食わねど高楊枝」の状況ではない。ところで、『清貧の思想』という中野孝次の著作があるが、これは素晴らしい本なので、是非ご一読を。そういう生き方に魅力を感じる人もいると思う。

非専門家の防衛術

Itoは感染症内科を専門に選びつつ総合内科の場で主治医として振る舞っているような立場の人間なので、専門家の目線と非専門家の目線を両方とも知っている。これまで病院総合内科の準(?)公式的立場でジェネラリストとスペシャリストの話をしていたが、今回は病院総合内科の立場を離れて少し踏み込んだ話をしてみたい。非公式なので、口調も「です・ます」調でなく「だ・である」調にしている。

 

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筑波大学の食堂のカツカレー、久しく食べぬ金沢風で美味しかったです

 

まず専門家の立場を述べると、入院している患者さんに対して主治医・担当医が主に診療にあたっており、直接診療しているメンバーの手に余るような問題(専門外の問題)が発生した際には、コンサルトといって、病院内にいる他の診療科のメンバーから知恵を借りることができる仕組みになっている。そして、このコンサルトという行為だが、一応はお金が動く仕組みになっている。

 

ここで注意しないといけないのが責任の所在という問題である。コンサルトを受けた医師(コンサルタント)は主治医・担当医(コンサルティー)に対して助言をすることはできるが、その助言を採用するかはコンサルティーの裁量にゆだねられていることが多く、その場合、コンサルタントは必ずしも患者さんの転帰(治療などの成功・失敗)に対して責任を負うわけではない(!)。そもそも患者さんの側にコンサルタントの存在が明かされることが少ないため、治療失敗時の怒りの矛先もコンサルタントではなくコンサルティーに向かってしまうことが多い(!!)。

 

もちろん、患者さんのことを親身に考えてくれるコンサルタントも世の中にたくさんいるし、自分もそういった「よきコンサルタント」に恵まれたことがあったので、自分自身も感染症領域に関しては「よきコンサルタント」でいたいと思っている。しかし、このような「よきコンサルタント」が決して多数派とは言えない点に強い危機感を覚えている。

 

最近よく見かけるのが、日勤帯であるにも関わらず、患者を一目も見ずに助言するタイプのコンサルタントである。ベッドサイドに行かなければ分からない情報は結構多い。Itoが印象に残っているコンサルトとして、憩室炎に対する抗菌薬選択を相談されたことがあったが、ベッドサイドに行ったらお腹が硬くて腸管穿孔・腹膜炎を起こしていることが分かって、緊急手術を提案したことがあった。こういった状況下でベッドサイドに足を運んでいない場合は、患者さんが死に至ることもあり得るわけで、コンサルタントも主治医・担当医と同じく患者さんと接する機会を持っていなければならないのである。

 

ベッドサイドに足を運ばないコンサルタントが特定の条件下で有害無益な存在になりうることを示す臨床研究も存在する。数年前だが、黄色ブドウ球菌菌血症に対する感染症内科コンサルトで、ベッドサイドに足を運ぶことなく電話対応のみにするとどのような転帰になるかという研究があった。黄色ブドウ球菌菌血症は、感染症内科医がベッドサイドに足を運ぶことで予後が改善することが繰り返し証明されている疾患なのだが、これが電話対応になると、かえって予後が悪化してしまうのである。

 

もちろん、コンサルタントが患者さんを一目も見ずに助言せざるを得ない背景事情があることも、Itoはコンサルタントの立場からよく知っている。ひとつの診療科の中で「病棟診療チーム」「外来チーム」「コンサルトチーム」といった具合に、上手く役割分担できるようなところであれば良いのだが、実際にはひとりの専門家が病棟診療とコンサルトを同時に担っているなど、多忙になってしまっている状況も決して少なくはない。業務負担の問題が背景にあることが多いのである。

 

しかし、どんな事情があるにせよ、コンサルタントに手抜きされたら、コンサルティーとしてはたまったものではない。多忙で直接患者さんを診られないのであれば、そのことをコンサルタントは明言するべきだし、同時進行でコンサルタント業務について構造的な改革を行わなければならない(例えば、非緊急の案件に関しては1日あたりの上限を設けるなど)。中途半端な助言が患者を死に至らしめることに、コンサルタントはもっと自覚的であるべきかと思う。業務を請け負うと言った時点でコンサルタントもあくまで診療チームの一員であり、「主治医感のなさ」がここに介在してはならない。

 

逆にコンサルティーコンサルタントに仕事を丸投げせずにしっかりと学ぶべきかと思う。コンサルタントとコンサルティーとでは知識量に大きな隔たりがあるので、コンサルタントがコンサルティーを短期的に騙すのは、実はかなり容易である。長期的には患者さんの具合がどんどん悪くなっていくのでメッキがはがれてくるものだが、その頃になると大抵は手遅れで、コンサルティーが責任を負わされることになる。だから、コンサルティーコンサルタントに相談する前に、しっかりと文献を吟味して、コンサルタントがどんな推奨をしてくるのかを事前に予想しておくことが望ましい(忙しければUp to Date®のレベルで構わない)。そして、その予想とコンサルタントの推奨が食い違う場合は、コンサルタントに遠慮なく質問するべきである。

 

コンサルティーの予想が誤っていれば、コンサルティーコンサルタントからプロのやり方を学ぶ良い機会になるだろう。コンサルタントの推奨が誤っていれば、そのコンサルタントが実際の症例から成長してもっと素晴らしいコンサルタントになるかもしれない。結局のところ、よきコンサルティーが、よきコンサルタントを育てるのである。何とか先生の言うことだから正しいだろうという盲目的な信頼は、こういった貴重な学問の機会を犠牲にしてしまうため、目の前の患者さんだけでなく、将来やってくる患者さんの損失にも潜在的に繋がっていってしまうのではないかと危惧する。

 

ということで、日本の医療現場におけるコンサルト業務はまだまだ質が低いと言わざるを得ないところがあるのだが、裏を返せば向上の余地があるということなので、今後の改善に期待したいところである。最後に、コンサルタントあるあるを少し紹介。

● 木曜、金曜日にコンサルトをかけると、大抵は保守的な答えが、尤もらしい理由とともに返ってくる(土日の急変を恐れるため)。例えば、感染症内科医に対して金曜日に抗菌薬選択を相談する場合は、基本的にバンコマイシン + セフェピム or ピペラシリン・タゾバクタムを推奨される。

コンサルタントが提案する推奨は必ずしもベストなものとは限らず、コンサルティーの顔色を窺いながら二番目、三番目くらいのランクの推奨をすることがある。例えば、肺炎球菌性肺炎に対して感染症内科医はペニシリンGを推奨したいという本音があるが、結局はセフトリアキソンに落ち着くことがある。

コンサルタントが一番ゲンナリするのは、コンサルティーがほとんど患者さんを診察していない場合とか、患者さんがコンサルトのことを知らされておらず不信感を抱かれた場合とか。

→ 個人的には、コンサルティーコンサルタントとしっかりと話し合うべきと考えるコンサルタントは大抵の場合、理想的な答えと現実的な答えの2つを持っているのであり、「あなたが提案しているのはどちらですか?」と率直に聞いても良いのではと思う。また、疑問点が生じた時に質問することは、コンサルタントに対する失礼にあたらない。コンサルティーは患者さんにコンサルタントの存在を明かすことで、コンサルタントが患者さんのもとに足を運びやすくしておくべきであり、患者さんがコンサルタントの顔を知らないということがないようにしておく必要がある(コンサルトの質向上に加え、責任の所在を明らかにする効果も)。

病院総合内科を修了した後のこと

こんにちは、Itoです。梅雨が明けて、猛暑が続くようになりました。病院総合内科にも熱中症の患者さんが増えてきましたが、そのほぼ全例が高体温で入院してくるので、多くが自動的にCOVID-19用の隔離病棟に入ってしまう現状に心を痛めています。もちろん、感染症を契機として体調を崩している中で熱中症になる患者さんもいるので、現行の対応で続けるしかないのでしょうが、COVID-19の流行状況次第では無理を生じてくるかもしれません。

 

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暑い日は畳のある場所に行きたくなる

 

さて、病院総合内科は黎明期の診療科ということで、例年通りに新メンバーが入ってこない状況が続くのではないかと懸念していたのですが、今年の新歓は興味があるよと声を掛けてくれる研修医の先生が何人かいてくれたことに感銘を受けています。前回のブログでも同じようなことを書いていて繰り返しなのですが、素直に嬉しく思っています。彼らの病院総合内科入りが確定したわけではないものの、どんな診療科を作っていけば彼らにとって幸せな現場を作ることができるのか、色々と考えるようになりました。もともと幸せな医療現場を追求してはいるのですが、やはり新しいメンバーの顔を思い浮かべるとその真剣さも増すというものです。

 

新メンバーが病院総合内科で充実した3年間を過ごしてほしいとItoは考えていますが、それだけでなく、修了した後も実りある医者人生を過ごしていける布石となるようなプログラムを作っていくことも目標にしたいとも考えています。今回のブログはそれについてです。

 

そもそも病院総合内科は、ジェネラリストの養成プログラムです。専攻医向け説明会で科長のK先生が説明されていましたが、ジェネラリストの育成は高齢社会における時代の要請であり、また、1人で10の問題を捌くことのできる存在でもあるので、経営者目線でも非常に有難い存在です。そんなわけで、巷ではジェネラリスト礼賛の声もチラホラ聞かれているのですが、敢えてひとつ言わせていただきたい。

 

"生粋の" ジェネラリストには、決してなってはならない。

 

どういうことかというと、ジェネラリストは何でもそつなくこなせるので、上層部から見ると非常に使い勝手の良い存在です。弱みがない反面、強烈な強みもないので、組織の中でのポジショニングが異常なまでに難しくなります。悪く言えば器用貧乏、組織の中に埋もれてしまうリスクが高いわけです。その結果として起こりうること(従事することになる仕事の内容など)は想像に任せていただくとして、生粋のジェネラリストになってしまうのはこの令和の世にあって、必ずしも得策とは言い難いと思います。

 

実のところ、病院総合内科に関わっている指導陣は全員何かしらのスペシャリティを持っています。言い換えれば、全員が「ジェネラルのできるスペシャリスト」です。先日の専攻医向け説明会で、指導陣全員が「病院総合内科はサブスペシャリティまで見据えている」みたいな発言をしていたと思うのですが、その意図は(Itoが察するに)サブスペシャリティ研修を行っていくための骨太な基盤を病院総合内科で築き上げていってほしいということなのです。従って、病院総合内科ではジェネラリストをon the jobで学んでいただきつつも、研修内容に「スペシャリストの心得」を含むようにしていけたらと考えています。

 

要するに、ジェネラリスト兼スペシャリストを目指してくださいということです。「ジェネラリストがスペシャリスト集団の中にいる」「スペシャリストがジェネラリスト集団の中にいる」……どちらの状況にしても、集団にとっては非常に有難いですし、当の本人にとってもブルーオーシャンにいられてポジショニング面で有利なので、メリットしかありません。なんやかんやで、自分の仕事を周囲からリスペクトしてもらえることって、とても幸せなことなんですね。そういう意味で、病院総合内科に入っていただけるジェネラル指向の強い先生方には是非、長期的にはスペシャリストになっていただきたいなと考えるわけです(換言すれば、物言わぬ「社会の歯車」にはなるなということです)。

 

では、スペシャリストとして大成するにはどうしたら良いのか、という話になってくると思うのですが、Ito個人の意見としては、超一流の師匠を見つけて徹底的に真似をすることに尽きるかと思います。独学でもある程度のところまでは行けるのですが、残念ながら独学だけでは絶対に破り切れない壁があります。師匠選びにはじっくりと時間をかけるべきです。自分の師匠を安易に決めてはいけません。有名な人物を師匠にすれば良いかというとそうでもなく、そういった人物は大抵忙しくて相手にされませんし、それ以前に理想を同じくする師匠を選ばないと、結果的に自分を見失うことになります。しっかりと自分の目で見て、心で感じて、頭で考えて師匠を選ばなければなりません。病院総合内科は、ジェネラル研修だけでなく、その師匠選びの時間を提供する「モラトリアムの場」にもなれるのではないかと思うんですね(例えば、病院総合内科の研修中に、他の施設を1日か2日ばかり見学に行きたいということも生じるかもしれませんが、その埋め合わせはマンパワー的に十分可能です)。

 

もし、ピンと来るような人物を見かけたら、本気で押し掛けて弟子入りするべきです。特にこのコロナ禍でオンラインでの勉強会が発達した結果、茨城県にいながらも日本全国の素晴らしい先生方の意見を聞く場面が増えてきたかと思うんですね。そういった一流の先生方の一挙一動、言葉のひとつひとつをよく観察しておくこと。「一流とはどういうものか」というセンスを、全国の勉強会に参加してしっかりと自分の中に蓄積していくのです。

 

ピンと来るような人物と言いましたが、実際のところは滅多に出会えません。例えば日本の感染症業界には優れた人物が多くいることは事実なのですが、実際に交流を持ってItoが「弟子入りしたい!」と思った人物は数人もいません。「優れた技術」と「理想の共鳴」というふたつの厳しい条件がある以上、まぁ、そんなものです。ですが、「弟子入りしたい!」と心の底から思える人物が現れたら、そのチャンスは絶対に逃してはいけません。弟子入りするかしないかで、恐らく人生が大きく変わってしまうかと思います。

 

病院総合内科に来ていただける先生方には研修後のことをしっかりと伝えていけたらと思いますが、その中で素晴らしいスペシャリストとの出会いを応援していけたらということも考えています。幸いにして、Itoは押し掛け弟子を人生で5回くらいやっている人間でして、専攻医の先生方が弟子入りしたい師匠を見つけた時にその背中を上手に押す自信があります。先生方には弟子入りのコツも授けたいと思っています。スペシャリストの性質も帯びた、唯一無二のジェネラリスト」を育てること。Itoとしては、それも病院総合内科のミッションにしていきたいなと感じています。

職場を具体的にどうつくっていくか

 2021年7月16日の夜、病院総合内科の説明会にItoも参加して熱弁を振るわせていただきましたが、何名かの研修医の先生方が参加されていて、おのおのが問題意識を持って自分の進路を考えていたことに感銘を受けました。参加いただいた研修医の先生方には是非、入っていただきたいなと思っています。というか、みんなで一緒に診療科を作っていきましょう! (渾身のラブコール!)

 病院総合内科は小規模の診療科なので、担い手が少ないことがどうしても問題になってきます。言ってしまえば、中にいる人全員が充実した日々を過ごせなくなったら現行の体制が一瞬にして破綻してしまうわけです。だからこそ、今の病院総合内科はItoが勝手に自分の理想に合うように「改造」している真っ只中なのですが、新しい研修医の先生方が入ったら、新しいメンバーの手も加えてはたらきやすい場所を作り上げていけたらいいな、なんて考えております。

 医療の理想はこれまで何度も語ってきました。医者も患者もコメディカルも全員が幸せな医療の実現です。その中核となる医療行為は、患者さんを目で見て、心で感じて、頭で考えることで、回避しうる入院・検査・治療を極限まで削ぎ落すところにあると考えています。そうすることで、「医者やコメディカルが楽した結果、患者さんも楽になる」という究極の医療を実現できることになるわけです (このコンセプトは「戦わずして勝つ」の医療版だと自負しています)。

 そんな具合に大きな理想論があるわけですが、細かくあれこれをどうするかという話は全然していないんですよね。新しい研修医の先生に入っていただけたら、可能な限りそのニーズを受け入れたいと思っていますが、Itoの方で考えていることを幾つか挙げていこうと思います。

 

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徳川慶喜の頃のものを再現した、苦み > 酸味、パンチ強めの珈琲

 

1.症例検討会のアウトソーシング

 基本的に症例検討会などの勉強会はアウトソーシングしようと考えています。東大感染症内科にいた時に感じたのですが、症例検討会を自前で月に1回準備するのって結構大変です。それで、コロナ禍に突入したのですが、オンラインでの勉強会が瞬く間に普及しました。音に聞こえたハイレベルの勉強会にも、茨城から簡単に参加できるようになったわけです。例えば、Tokyo GIM conferenceとか、IDATEN case conferenceは、臨床推論の道筋をいろいろな先生方が言語化して説明してくれるので、新しい考え方をインストールする良い機会になると思います。膠原病の勉強会なんかも結構たくさん開かれているみたいですね。

 そういった勉強会に参加することで、診療のガラパゴス化を防ぐ効果も得られます。どうしても、ひとつの施設で診療していると頭が凝り固まってしまうのですが、他流試合をしないとそのことに無自覚なままでいることになってしまいます。かつては、茨城県など地域医療に従事しているとこのあたりがネックになることが多かったのですが、コロナ禍の影響で図らずも解決してしまったということです。

 

2.必要最低限のハンズオン

 自前の勉強会を用意しないとはいっても、病院総合内科で追及する理想の医療を実現するには、いくつか誰も教えてくれないような基本的事項を確実に押さえておく必要があるとは思っています。具体的には、患者さんの全体像を掌握する方法と、ゴールを設定してそれに向かって最短距離でプロセスを遂行する方法途中で生じた未知の問題点を自力で解決する方法……このあたりは病院総合内科で研修する先生方に身に着けていただきたいと考えていて、しっかりと伝えていけたらなと思います。

 患者さんの全体像を掌握するというのは、精度の高いプロブレムリストを作成するということです (カルテの切り貼りだけでなく、なるべく患者さんの話からも……)。例えば、重要でなさそうなプロブレムリストとして「# 慢性膵炎の既往」なんてあるかと思いますが、これを把握しそびれると揚げ物の含まれた食事を提供してしまって患者さんの食思不振を助長させる可能性があります。ここでプロブレムリストがしっかりしていれば、天ぷら抜き低脂肪食を提供するというちょっと粋な (生意気な?) 対応ができるわけですね。

 患者さんの全体像を上手く掌握することができると、入院日のうちに「理想的な退院日」を推定することができます。解決しないといけない問題点がいくつあって、それぞれの解決にどれくらいの日数がかかるか分かるわけですから。逆に「理想的な退院日」を達成できなかった時に「何がいけなかったんだろう?」と反省して自分の診療をブラッシュアップするきっかけにすることもできます。診療が客観的に成功していたとしても、その中で自ら課題を浮き彫りにして、貪欲にレベルアップしていくことが大切だと思うのです。こうして他人がいなくても自己修復的にフィードバックが効く仕組みを確立しておくと、どんどん独学が上手になっていきます。

 独学といえば、医者として仕事をしていると、常に周りに相談できる人がいるとは限りません。例えばパーキンソン病を診断しても、神経内科医が身近にいるとは限らないわけです。そんな状況になった際には、自分でUp to Date®なり、Lancetの総説なりを読んでパーキンソン病の患者さんを治していかないといけないわけですが、こういった情報収集をするスキルは非常に大切だと思います。知識がなければ、その場で知識を生成してしまえ、というわけですね。しかも、その場で生成した知識というのは間違いなく最新知識なので、もしかしたら下手な専門医よりは良い治療を提供できてしまうかもしれません。実は論文をたくさん読んでいると、専門家の意見が誤っていることに気がついてしまう場面が意外と多くて、背筋がゾワッとするものです (あるいは専門家に甘く見られているのか……)。

 根本的なスキルのハンズオンの話ばかりしてしまいました。もちろん、Itoは感染症のレクチャーなども引き出しを多く持っているので可能ではあるのですが、それを積極的にやろうとまでは思っていません (強いニーズがあればやります!)。というのも、抗菌薬を使えるとか、心電図を確実に読めるとか、そういうのは根本的なスキルと比べると圧倒的に重要度が落ちるんですよね (大切であることは認めます!)。いちばん大事なのは、ちゃんとベッドサイドに行って患者さんを診ることです。患者さんを大切にしていれば、知識なんて後から勝手についてくるのでご安心ください。熱心にレクチャーを聞いたり、論文を読んだりしたところで、そこに治したい患者さんのイメージが伴ってこなければ、知識なんて簡単に頭から抜けていってしまうものです。

 

3.PubMed debut

 独学の話を先程したのですが、論文をたくさん読んでいると、自分も論文を書きたいという気持ちになってくるのではないかと思うんですよね。それで、実際に論文を書くのって大変なイメージがあるのですが、実はPubMedに論文を載せるのはさほど難しいことではないです。しばしば偉い先生が「お前に論文を書かせてやろう」なんてやっていますけど、そんな大層なものでは断じてございませぬ、別に有難くもなんともない。論文にはいろいろなスタイルがあって、総説、原著、症例報告、レターなどがありますが、病院総合内科であれば少なくとも症例報告とレターは1週間に1本くらい出せると思います (あくまで本気を出したらの話で、実際にやったらノイローゼ確定です)。

 原著論文にしても、最近はItoが倫理委員会に研究を申請する方法を覚えたところなので、いくらでも挑戦できると思います。診療科名が「病院総合内科」なので、多分何の研究をしても許されてしまうというのも強みです。「感染症内科」だと大動脈解離の研究は多分アウトですが、「病院総合内科」なら何の問題もないですよね。ということで、臨床研究もやってみたければどしどしチャレンジできる環境です。最初のデザインさえ誤らなければ、後ろ向きコホート研究くらいは気軽に出来ると思います。

 

4.人生設計を真剣に考える

 ヒトの寿命は絶賛延長中でして、恐らくぼくらは普通に (!) 100歳まで生きるのではないかと単純な比例計算で予測することができます (生年と世界平均寿命の関係をプロットすると、概ね一次関数の形になります)。そうすると、65歳とか70歳で退職して余生を……という生き方は金銭的に無理ということになります。つまりは80歳くらいまで当たり前のように現役という話になってくるわけですが、その頃になってくると20代、30代で仕入れたスキルも流石に時代遅れ。40代、50代、60代、人生のあらゆるステージにおいて新しい知識を取り入れられるような体質とか習慣を、人生の早い段階で獲得してしまうのが大切なのではないかと思います。そういった自己変革のできる人物に、新しく入ってくれる研修医の先生にはなってほしいなと考えています。

 逆に自己変革ができなかったらどうなるかというと、「社会の歯車」で終わるコースで人生確定かと思います。Itoは初期研修医の先生に「いい研修医にならなくていいから、いい指導医を目指してほしい」とよく言っているのですが、それはつまりは「奴隷のように生きてほしくない」という意味を込めてのことです。

 さて、人生においては有形資産も無形資産もどちらも重要です。有形資産は極端に言ってしまえばお金のことで、無形資産は人脈とか個人のスキルのことと考えて下さい。有形資産の話はオフレコでの話に回すとして、自己変革をなすには無形資産の活用が非常に重要です。スキルを元手に人脈を広げていき、その人脈を活用して新しいスキルを身に着ける……そういったサイクルを回していくのが長い人生を楽しむ秘訣です。

 無形資産としての一般内科スキルは、それだけではあまり効果を発揮しないかもしれません。しかし、他のスキルと組み合わせることで大きな付加価値を生むことができます。例えば、耳鼻科医が内科専門医を持っていたら、病棟において間違いなく唯一無二の存在になれることでしょう (他にそんな医者なんていないので、ブルーオーシャンだと断言できます)。もちろん、病棟管理を任されやすい = 肉体労働が増えるということに一時的にはなるかもしれませんが、長期目線だと診療科の「角」または「飛車」としてハイグラウンドに立てるのではないでしょうか。耳鼻科と内科を掛け合わせるからこそ大きな付加価値を生み出せるわけで、きたるべき「医者が淘汰される時代」において生き残れる確率が極めて高くなるかと思います。あと、内科が出来ると地域のアルバイトが結構多いので、ちょっとした小遣い稼ぎにも有利かもしれませんね。

 無形資産として人脈を広げることも大事ですが、それは余暇を上手く作って広げていったり、メンテナンスしたりするしかないと思います。大切なことは、未知のコミュニティに恐れずに飛び込むことです。Itoの経験からいくと、「俺を仲間に加えてくれ」的な手紙を偉い人に出すと意外と受け入れてもらえる印象です。そんな手紙を出す人間が他にいないからインパクトが凄いのでしょうね。まぁ、具体的なエピソードの数々は病院総合内科に入ってからのお楽しみということにして、失敗しても何も失うものがないのであればどんどんチャレンジを重ねていくべきです。

 そんな感じで、有形資産とか無形資産のことを知って今後の人生をどう作戦するかも研修医の先生方と共有したいですね。病院総合内科での研修3年間を成功させるのは当たり前のことで、むしろ病院総合内科を人生100年作戦の足掛かりにしていただけたら嬉しいな、なんて考えています。

 

 病院総合内科のブログもだいぶ色々と好き勝手書かせていただいています。公式なのか非公式なのかはもはや誰も把握していないわけですが、上層部の先生方からは一応許容いただいています (多分……ね)。これが病院総合内科の懐の深さと思っていただけると幸いです。

2021年の梅雨、新歓シーズンになりました!

こんにちは、Itoです。今年の梅雨は時間帯によって雨の降り具合が異なっていて、移動手段を選ぶのが難しいですね。早朝、あまり雨が降っていないものだから自転車で簡単に通勤できるだろうと思っていたら、出かける頃には大雨に変わっていて、急遽バス通勤に切り替えて危うく遅刻しそうになる。そんな日に限って夕方は雨が上がって、ゆっくりと徒歩で帰る羽目になるわけです。雨上がりの空気は塵が落ちて澄み切っているのか、少しばかり清い感じがして、そんな空気を胸いっぱいに吸い込みながら帰り道を楽しむのも嫌いではないので、まぁ、よしとしましょうか。白黒でモノトナスな病院にずっといるのだし、しっかりと目を見開いて緑と紫を感じるようにしています。紫というのは、道端に咲く紫陽花のことですね。

 

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潮来市あやめ祭り、お囃子が素敵でした

 

筑波大学附属病院 病院総合内科の知名度が低すぎるという問題について、最近は積極的に外に向けて手を打つようにしています。例えば、ジェネラリストサロンへの働きかけ。この世は厄介なことに、富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなるという酷い仕様でできあがっているのですが(この現実は直視するしかない)、臨床研修についても同様で有名病院に若手が殺到する仕組みになってしまっていて、ここに風穴を開けるのは容易ではありません。新参者がこの問題を乗り越えるにはジェネラリストサロンへの参加が肝要と考えています。なんだか、欧米列強に入ろうと努力する明治維新の日本の気分です。

 

取り組みの一例として、こういう文章を拡散してみるわけです。

筑波大学附属病院 病院総合内科は2017年に創設された診療科です。それ以前の筑波大学附属病院には元々、総合内科の病棟がありませんでしたが、新専門医制度を開始するにあたって幅広い内科研修のできる場所として設立されました。「診療科」といっても、他診療科のように「その医局に所属してずっと居続ける」という性質の場所ではなくて、どちらかといえばサブスペシャリティで不足する部分を補充するための場所として成立しています。

 

例えば、サブスペシャリティのまだ決まっていない専攻医の先生。病院総合内科に身を置いてとりあえず内科専門医資格に必要な症例を集めながら、将来どこに所属するかを冷静に決めることができます。また、サブスペシャリティが既に決まっているけれども、それ以外の内科を短期間でローテーションするのは育児などで心配、あるいは救急からの入院症例を中心に短期ローテーションではなく幅広い内科症例を経験し、内科専門医資格の症例を集めていくことができます。

 

ざっと2つのプランを提示してみましたが、病院総合内科はまだ創設間もなく、決まったルールなどもなく個別に対応可能なので、例えば病院総合内科とローテート制度の折衷案なども希望があれば検討することができますし、ICU/ERチームで研修することも可能です。専攻医の先生方の希望に寄り添えるような場所を目指していきたいと考えています。要するに、独立した診療科ではありますが、シェルターとか、出入りしやすいコミュニティとか、そういった場所です。

 

実際の勤務内容としては、救急集中治療科の病棟チームとして救急外来からの軽症~中等症患者さんの入院管理、重症でICU/HCUに入院していた患者さんの気道・循環安定後の入院管理引き継ぎなどを主な内容としています。患者さんの背景疾患のバリエーションに富んでおり、内科専門医資格(J-OSLER)に必要な症例を集めることは問題なく可能です (年間200名程度を入院診療しています)。今のところは常時5~15人の患者さんを2人の専攻医と0~2人の臨床研修医で診ていて、それを指導医の先生が監督しているという体制をとっています。

 

“病院総合内科” という名前ですが、救急・集中治療科の病棟チームから立ち上がっており、業務は密に連携しています。時間のオン・オフにはかなり意識的であり、夜間はICU当直の医師が病棟の入院患者にも対応するため、基本的にはコールフリーです。また、現時点では週4日 + 外勤 + 週末オンコールという割と普通の勤務スケジュールになっていますが、個人ごとの事情を勘案しながら勤務形態を練り上げていけたらと考えています。

 

世の中には様々な診療科がありますが、ぼくらは育休や産休の前後で忙しい先生方にこそ来てほしいなと思っています。育休や産休の前後で忙しい先生方を中心として診療科のかたちを整えていくことで、長期的には今後同じように大変な先生方が現れた時に駆け込むことのできるような場所をこの世に作り出したいと考えています。幸いにして筑波大学は喧騒の東京からは丁度よい距離にあります。秋葉原から乗り換えなしで電車45分なので、東京から駆け込むには無理のないレベルです。

 

もちろん、つくば市の暮らしやすさは保証いたします。地方特有のご飯のおいしさは言うまでもないですが、大学近くには図書館とか博物館がたくさんあるので、知的で充実した余暇を過ごすことができます(つくば駅筑波大学の間にあるので立ち寄りやすいです)。「研究学園都市」と呼ばれるほど国立の研究所や製薬会社をはじめとした企業研究所が数多くあり、あちこち見学すると子供も大人も楽しいです。洞峰公園など、散歩していて心地よい公園にも恵まれています。色々と語りたいことは多いのですが、とかく景観の美しい場所です。都会から一度飛び込んでみたら、意外な住みやすさの虜になること間違いなしでしょう。

 

認知度を上げるために外に向かって積極策を繰り広げていますが、茨城県外への認知度は容易には上がってこないと思っています。大事なのは短期的に頑張ることではなく、長期的にジャブを繰り出していくことです。サロン内で「病院総合内科、聞いたことがある」と思ってもらえるレベルになれば、今のところは上々です。逆に、最近は茨城県内での認知度をしっかり上げていくことを目標にしています。昨年度は「医師数の少ない茨城県内で人材を奪い合うのは忍びない」と考えて、茨城県内での働きかけを控えていた面があったのですが、むしろある程度の規模にならないと茨城県外から人材を呼び込むのは難しいと感じて、茨城県内の人材を重視する方針にとりあえずは転換しているところです。

 

とはいえ、長期的には茨城県医師不足の解決を目標にしたいので、ある程度の知名度を獲得することができたら、茨城県外からの呼び込みに力を入れないと病院総合内科の未来はないとも思っています(Itoの私見です)。診療科の存続という些末な問題に汲々とするのではなく、むしろ社会問題を解決する起爆点となるような、そういう診療科を目指さない限りは診療科の存続すら危ういことでしょう。こういった話は、様々な企業の歴史が証明しています。

 

自分で言うのもアレですが、病院総合内科の底力は凄まじいです(というか、凄まじくしないと勝ち目がない世の中なので、ゲームをやり込む感覚でみんなで楽しく頑張っています)。月に2本はPubMed論文をコンスタントに通していますし、オン・オフもここ以上にしっかりしている診療科はないのではと思っています。疾患診療の幅も広いのですが、それについては過去のブログや病院総合内科から出ている症例報告を見ていただければ一目瞭然なので割愛します。「あまりにも話が上手すぎて、なんだか怪しい」という理由で敬遠している先生がいるのではないかと思いますが、「こんな職場が存在していたら面白いのでは」と思うような場所を少しずつ作っているわけです。

 

どうしてそんな診療科を作っているかというと、やはり「教育病院の閉鎖性」に風穴を開けたいという願いが強いから。昔からItoには大きな不満があります。大抵の教育病院はハイパー過ぎる。一流の教育を受けたければ教育病院に入って、朝早くから夜遅くまで歯を食いしばって勤務しなければならないわけです。でも、Itoは朝6時、7時なんかに病院に出勤したくはないです。頭の回転の良い早朝は、自宅で論文や本を読んだり、研究のアイデアを練ったりするのに使いたいから。昼の数倍は捗る時間帯なので、ルーチンワークにあててしまうのが勿体ない。夜20時、21時を過ぎてまで残業するのも無理です。もともと体力がないので、夕方にはヘロヘロになって全てがどうでもよくなってきてしまう。そもそも、残業しないと患者さんの命を守れない状況というのは、医療安全面でちょっと問題なのではとも思っています(つまりはキャパオーバーです)。何を言いたいかというと、学問と根性は全くの別物なのに、そこが混同されているのではという不満があるということです。

 

そういうわけで、病院総合内科は「勉強になるけど根性論に依存しない画期的な場所」を目指しています。それこそ、産休や育休の前後でハンデキャップがある状態でも十分に機能するようなところを。産休や育休の前後の医師を求める理由も明確で、そういうメンバーが集まって働き方のニーズをはっきりさせないと、そういった医師にとって真に優しい医療現場を実現することができないからです。思うに、彼らにとっての労働環境が厳しい大きな理由のひとつは、そういった人たちが各所に散ってしまっていることではないでしょうか。そういった人たちが一箇所に集まって結束してお互いの不足分を埋めあえば、ちゃんと機能する医療現場を作り出せるのではないでしょうか。

 

Itoは病院総合内科を、ゆくゆくは「正規ルート」なるものから逸脱しかかっている医師が集まって、お互い助け合っていくようなコミュニティにしていきたいと思っています。この世に一箇所くらい、そんな優しい医療現場があっても良いじゃないですか。この荒々しくて、お世辞にも弱者に優しいとは言えない社会に救済の場を築き上げることができれば、茨城県の医療も先行き決して暗くはないと信じています。

水戸に似ていながら真逆の結末を辿った国

Itoは歴史学者ではないから、歴史に関しては無意識のうちに嘘を言っているかもしれない。その点は平にご容赦いただきたいが、個人的に茨城県が上手くいっていない遠因は天狗党の乱などの内乱にあると何となく感じている。このことは前回のブログに書いたとおりである。

 

それで、前回のブログを書いている時にちょうど見返していた大河ドラマがある。司馬遼太郎が原作の「花神」である。いちおう、主人公は日本近代陸軍の父・大村益次郎村田蔵六)ということになっているが、実際には吉田松陰高杉晋作を中心として進む場面も多く、そういう意味では長州藩を主人公とした大河ドラマと言えるかもしれない。

 

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大村益次郎といえば、上野寛永寺彰義隊の戦い)

 

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大衆向けというよりは歴史の専門家から好評だったらしい

 

長州藩と聞くと、倒幕のために坂本龍馬を仲立ちに薩摩藩と同盟を結び、徳川幕府と戦って江戸時代を終わらせた……そういうイメージが強いかもしれない。しかし、長州藩目線で歴史を振り返るとそこまで単純な話では決してなく、(意外なことに)長州藩は何度も滅びかけているという事実に驚かされる。

 

長州藩は、吉田松陰を媒介にして、水戸藩尊王攘夷思想を最も強く受け継いだ藩といえるが、水戸藩と同様に多くの過激派を生み出した。徳川将軍を輩出した水戸藩徳川幕府を倒した長州藩とでは、水と油のイメージがあるかもしれないが、思想的にはむしろ親子兄弟の関係くらいには近いのである。それで彼ら長州藩過激派は、天皇家を奉じての倒幕を画策した(池田屋事件などで頓挫)。加えて、下関海峡を通るアメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦を砲撃した。よりによって、徳川幕府が開国に際して諸外国との交渉に難儀している時に。

 

これらの暴発によって、長州藩は日本のすべてを敵に回した(薩摩藩含む)。それだけで済めばよかったが、世界のすべても敵に回した。周防・長門という小さな国が、文字通りのすべてを敵に回したのである。日本史上、これほどの危機的状況が他にあるだろうか。

 

すべてを敵に回した長州藩は、2つの大きな事件を体験する。

蛤御門の変禁門の変) vs. 徳川幕府

・ 馬関戦争 (下関戦争)vs. イギリス、フランス、オランダ、アメリ

 

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長州藩 vs. 列強四国の艦隊。勝てるはずのない前代未聞の戦争

 

蛤御門の変も、馬関戦争も、どちらも長州藩が完膚なきまでに敗れるという結果に終わった。恐らくは当時の誰しもが「長州藩は終わった」と思ったに違いないだろう。それほどの被害だった。この時期に長州藩は、久坂玄瑞など将来を有望視された人材も数多く失っているが、その惨憺たるや、水戸藩と同等か、あるいはそれ以上に血生臭いのである。

 

それでも最後に勝利を掴んだのは長州藩であった。信じられないことに、日本史上最大の危機的状況が、数年を経て日本史上最大の逆転劇に変貌した。なぜ、このようなことが可能だったのか。個人的には日本史におけるひとつのミステリーだと思っているが、それでも確実に言えそうなことがひとつある。

 

長州藩は、とかく運がよかった。*

 

蛤御門の変や馬関戦争の後、徳川幕府長州藩を征伐しようとするが、薩摩藩のスタンドプレーや第14代将軍・家茂の病死などの様々な要因が重なって、この長州征伐は失敗に終わる。この長州征伐の失敗が、徳川幕府の権威を失墜させた。その間に、長州藩では高杉晋作がクーデターを成功させ、藩の体制も倒幕を指向した新しいものになった。そこに、土佐藩坂本龍馬が持ち掛けた薩長同盟である。これらの要素が揃うことによって、完全に時勢は倒幕へと傾いた。

 

あれほど多くの敵を作り、あれほど多くの血を流した長州藩。なぜ、かくも運がよかったのだろう……。「花神」を鑑賞しながら、水戸藩と何が違っていたかを素人ながらずっと考え込んでしまったのである。

 

思うに、歴史の表舞台から「一発退場」を食らわなかったことが運命の分かれ道だったのではないか。確かに、長州藩尊王攘夷派はしばしば暴発した。しかし、その暴発の傍らには常に冷静な人物がいた。例えば、木戸孝允桂小五郎)。剣術の達人でありながら生涯一度も真剣を抜いたことがない。あだ名は「逃げの小五郎」、危うい場所を慎重に回避していた。そういった冷静な人物が暴発後も生き残って、戦いを続けることができたのではないか。冷静な計算に基づいた情熱的な「ネバーギブアップ」がそこにはあったのだと思う。

 

挑戦の末にどんなに危機的な状況に陥ったとしても、「一発退場」を食らいさえしなければ、やがては時勢が変わってきて大逆転を遂げられる可能性がある。少なくとも、日本のすべて、世界のすべてを敵に回して文字通りの四面楚歌に陥った長州藩は、それをやってのけた。「粘り強く戦い続ける」とはどういうことか。長州藩は100余年の時を越えて、今を生きる僕らに語り掛けてくれる。

 

* 補: 言うまでもなく、長州藩の人材の層が厚かったことも大きな要因だったであろう。松下村塾伊藤博文など明治の元勲を多く輩出したことはあまりにも有名だが、吉田松陰自身も長州藩主・毛利敬親から才能を認められていたようで、身分を問わない層の厚さという点が大きなポイントだったのかもしれない。大河ドラマ花神」の中に「長州藩は若者に甘い」という台詞があったのが強く印象に残っているが、そのような土壌で思想家(吉田松陰)、戦略家(高杉晋作)、技術者(大村益次郎)が揃ったからこそ、明治維新という奇跡的な革命を成し遂げることができた。そういう面も間違いなくあるだろう。

僕らは茨城の歴史を知らない

筑波大学附属病院 病院総合内科に来る以前からずっと考えていることがある。なぜ茨城県はなかなか発展していかないのだろうかという疑問だ。物心ついた1990年代半ば、その頃はまだつくば市土浦市には活気があった。つくば市には西武デパートがあったし、土浦市にも大きなトイザらスイトーヨーカドーがあって、最低限の衣食住のみならず、余暇を楽しむにも不自由のない場所であった。少しガラは悪かったが、ネオジオワールドなんていう娯楽施設もあって、時折遊んでいたのも懐かしい。後から振り返ってみると、当時はバブル崩壊後に少しずつ貯金を切り崩しながら辛うじて繁栄を保っていただけだったのかもしれない。

 

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つくば駅前はだいぶ変わった…… (2017年2月28日の衝撃ニュース)

 

茨城県を20年以上見てきた人間の実感としては、守谷市を除く県全体がつくばエクスプレス線の開通した2005年を境に落ちてしまったような印象があって、そこにイオンモールが進出することでほんの少しだけ持ち直して「衣食住 + α」の状態で低空飛行しているような、そんな感覚である。もっとも、「落ちてしまった」とはいっても、日本経済全体としては少しずつ成長しているわけだから、2005年と2021年を単純比較すると2021年の方が色々と進んではいるのだろうが……。

 

つくば市土浦市茨城県南地域にあたるが、水戸市などの茨城県北地域も例外ではないのだろう。そんな茨城県をずっと見てきては、どうすれば茨城県を再生させられるのだろうかと疑問に感じてきた。筑波大学附属病院の病院総合内科を盛り上げたいという気持ちも、実は茨城県を盛り上げたい気持ちの裏返しである。ひとつのまとまったコミュニティを盛り上げるにはどうすればよいのか、それを知りたいがために経済学の本とか政治学の本とかも読む。つくば市立中央図書館は、そういった読書欲を満足させてくれる(つくば市のインフラ面は今でも優れていると思う)。それでも、まだまだ答えからはだいぶ遠い。

 

そもそもなぜ茨城県は(体感的に)こんなに落ちてしまったのだろうか。色々と要因はあるだろうが、個人的には茨城県が歴史を捨ててしまったというのもひとつの大きな要因なのではないかと感じる。ここでは、茨城県に歴史がないというのではなく、歴史を捨ててしまったと言った方が適切である。

 

実際、茨城県にはちゃんと歴史がある。古くは平将門の乱が有名だが、それ以前に鹿島神宮を起点として武術の諸流派が勃興した。茨城県を戦国時代に治めていた佐竹氏は、大大名である北条氏や伊達氏に対抗できるレベルの勢力だったし、佐竹氏転封後の江戸時代には徳川御三家たる水戸家や譜代の牧野氏、土屋氏などの有力な大名が茨城県を統治していた。もちろん、例えば水戸藩は御三家という家格に比して石高が少なかったという不利もあったろうが、それでも歴史的に茨城県は発展に有利な材料を多く持っていたように思う。

 

それで、確かに茨城県は栄えた。水戸学という学問の中心地となり、それが尊王攘夷思想に昇華して日本全体のムードとなった。偕楽園弘道館に見られる通り、武を伴いながらも文化的に栄えることに一時は成功しているのである。ところが、幕末期の茨城県はどうもエネルギーを蓄え過ぎたらしい。水戸学は過激派を生み、派閥を生み、内紛を引き起こしてしまった。世にいう、天狗党の乱である。これらの内紛で茨城県はリーダーを担える人材を多く失ってしまい、血で血を洗っているうちに次の時代へのエネルギーを失ってしまった……そんなふうに後世からは見える。

 

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天狗党の名前を冠した水戸納豆

 

最終的に、水戸学の尊王思想は長州藩などに引き継がれて明治維新の原動力になった。しかし、水戸学のことは新政府から綺麗さっぱり忘れられてしまったようで、その後茨城県が日本の政治を担うこともなかった。重要な歴史を有していながら、忘れ去られてしまったのである。茨城県民の自虐ムードの根底には、こういった歴史的背景も絡んでいるのではないかと思わず感じてしまう。「茨城県に歴史なんてものはなかったんだ」という感じで。

 

個人的に、最近の大河ドラマは言葉遣いなどがしっかりと吟味されていなくて嫌いなことが多いのだが、それでも「青天を衝け」で水戸藩天狗党の乱が取り上げられているのは良いことだと思っている。茨城県民が今回の大河ドラマを契機に歴史を勉強すれば、茨城県民も少しはメンタリティ面で強くなれるのではないか。

 

「歴史を知らない者は歴史に罰せられる」なんて言うと、歴史学者でもない奴が何を言っているんだと言われてしまいそうだが、それでも歴史を勉強することは今の自分を知ることに繋がってくるのでお勧めしたい。興味があれば是非、茨城県を見つめなおして各々再評価を試みてほしい。みんなが思っているほど茨城県が「遅れた」場所、あるいは「ださい」場所でないことを、きっと分かっていただけるはずだ。