つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

守破離考

武道・武術の世界ではよく「守・破・離」という言葉が使われている。指導者の教えを守るように稽古し、型が確立したらそれを破って、最後はそこから離れて自分のやり方を確立する上達のプロセスを表現した言葉であるが、その語源は千利休の和歌にまで遡る。

規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな
『利休道歌』

 

医の道も果てない修行、一生勉強である。ただ、Itoにとってひとつ分からなかったことがある。「守・破・離のどこまでがインプット主体で、どこからがアウトプット主体になるのだろう」とずっと疑問に思っていたのだ。ちょっとした哲学にはなるが、修行大好き人間のキャリアパスを考える上では決して避けることのできない問題である。下手にポストに就いてしまうと、もしかしたら学問に支障を生じてしまうかもしれない。ポストに就くのが早すぎると、社会的には注目されるかもしれないが、人生における最終到達点が低くなってしまう懸念があるのだ。

 

最近、タイラー・コーエンという経済学者の本をよく読む。図書館で『創造的破壊』(作品社) という本を借りられたので、今はそれを読んでいる。ローカルな文化がグロバリゼーションによって破壊される現象はこれまでも多く議論されてきたところではあるが、本当にグロバリゼーションがローカルな文化にとってマイナスになるだけなのかという問題に切り込んだ論考だ。

 

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著者は日本料理が大好きなグルメ経済学者

 

ローカルな文化を称揚することは、多様性を称揚することと密接に関わる。グロバリゼーションは個々の文化によって支えられた多様性を失うことになるのだろうか。答えは必ずしもイエスではないとこの本では論じている。グロバリゼーションによって個々の分化の中でもイノベーションが発生するため、結果的には個々の分化の中で多様性が生まれることになり、結果として以前よりも多様性が増すことになるという論調である。

 

タイラー・コーエンの本を読んでいると、ヘーゲルの『歴史哲学講義』を思い出す。ヘーゲル弁証法というのは、平たく言えば、ある物事がそれに対立する物事の要素を取り入れることでより優れた物事を生み出す (止揚する;アウフヘーベン) ことである。例えば、欧米の料理を例に、日本の料理を対立項にとってみよう。そこで欧米の料理が日本の料理人の手を借りることで、日本の欧米料理ができて、本場より美味しくなってしまう……と、そういう考え方を弁証法というのだとさ (間違っていたらすみません)。もっとも、日本の料理のレベルが世界的にかなり高水準だというのは、人に聞く限りどうも本当らしい。

 

ここで、タイラー・コーエンがあまり論じていない要素がある。著者も認めている通り、グロバリゼーションによってローカルな文化が破壊されることもあれば、止揚 (アウフヘーベン) されることもある。ところが、この明暗を分ける要素は何なのだろうかという論点が『創造的破壊』ではあまりしっかりと論じられていないのだ。Itoが思うに、「対立可能性」という要素が止揚ルートに行くに重要なのではなかろうか。文字通り、ローカルな文化が多少なりともグロバリゼーションに対立しうるかということである。

 

「対立可能性」と言った時に頭に思い浮かぶのが、東京裁判での石原莞爾の発言。東條英機との思想上の対立について問われ、東條英機には思想なんてないから思想上の対立もないと返答したことは有名な話だが、ここで強調したいのは、中身のあるものどうしでないとそもそも対立しえないということである。

 

ここまで論じると、「守・破・離」の話も少し見通しが良くなってくるのではなかろうか。つまり、「守」のプロセスを飛ばすと、(型がなくて対立が全く生じなくなるわけだから) 外から物事を上手く受け入れることが難しくなってしまい、結果として他流試合などを自分の糧にすることができなくなってしまう。ここでいう他流試合などを自分の糧にするプロセスが、ちょうど「破」に該当するだろう。「破」というのは、実はまだインプット主体 (ただし、身内ではなく外から学ぶことの方が多い) の段階なのではないかとItoはここで気づくわけである。

 

キャリアパスと修行論というところに落とし込むと、まずはひとりの師匠について徹底的に型を学ぶのが数年、ここで「守」のプロセスが終了する。その後に井の中の蛙にならずに済めば、他流試合を通じて貪欲に学ぶ期間があって、これが「破」のプロセス。もともとの型に他流を取り込んで止揚しているので、これは「創造的破壊」と呼んでも差し支えないだろう。こういった修行のプロセスを完了して世界へと戦いを挑むのが「離」ということになる (のかなぁ。未経験なので分からない)。

 

何年目までが「守」で、何年目までが「破」なのかということについては、恐らくは「離」の段階で何をしたいかに大きく依存する。「離」で本当に世界と勝負したいのであれば、「破」のプロセスの中で日本にある知恵くらいは一通り体得する必要があるだろうから、定年退職寸前まで「破」のプロセスが続くということも十分考えられる。そう考えると、万全の状態で最高の「離」を迎えるためには、健康を保つことが何よりも大切なのだと思う。実際、チャーチルが首相になったのは65歳だったし、カーネル・サンダースがKFCを創業したのも65歳だ。世界のリーダーには高齢になってから始動して偉大な足跡を残した人物が結構多い (リチャード・ニクソン『指導者とは』に詳しい)。そういえば伊能忠敬も学問の多い晩成の人だったな。心身ともに元気な状態を保ちながらも、「離」に至るまでの長い積み重ねを大切に精進していきたい。