つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

水戸に似ていながら真逆の結末を辿った国

Itoは歴史学者ではないから、歴史に関しては無意識のうちに嘘を言っているかもしれない。その点は平にご容赦いただきたいが、個人的に茨城県が上手くいっていない遠因は天狗党の乱などの内乱にあると何となく感じている。このことは前回のブログに書いたとおりである。

 

それで、前回のブログを書いている時にちょうど見返していた大河ドラマがある。司馬遼太郎が原作の「花神」である。いちおう、主人公は日本近代陸軍の父・大村益次郎村田蔵六)ということになっているが、実際には吉田松陰高杉晋作を中心として進む場面も多く、そういう意味では長州藩を主人公とした大河ドラマと言えるかもしれない。

 

f:id:TsukubaHospitalist:20210702213841j:plain

大村益次郎といえば、上野寛永寺彰義隊の戦い)

 

f:id:TsukubaHospitalist:20210702212715j:plain

大衆向けというよりは歴史の専門家から好評だったらしい

 

長州藩と聞くと、倒幕のために坂本龍馬を仲立ちに薩摩藩と同盟を結び、徳川幕府と戦って江戸時代を終わらせた……そういうイメージが強いかもしれない。しかし、長州藩目線で歴史を振り返るとそこまで単純な話では決してなく、(意外なことに)長州藩は何度も滅びかけているという事実に驚かされる。

 

長州藩は、吉田松陰を媒介にして、水戸藩尊王攘夷思想を最も強く受け継いだ藩といえるが、水戸藩と同様に多くの過激派を生み出した。徳川将軍を輩出した水戸藩徳川幕府を倒した長州藩とでは、水と油のイメージがあるかもしれないが、思想的にはむしろ親子兄弟の関係くらいには近いのである。それで彼ら長州藩過激派は、天皇家を奉じての倒幕を画策した(池田屋事件などで頓挫)。加えて、下関海峡を通るアメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦を砲撃した。よりによって、徳川幕府が開国に際して諸外国との交渉に難儀している時に。

 

これらの暴発によって、長州藩は日本のすべてを敵に回した(薩摩藩含む)。それだけで済めばよかったが、世界のすべても敵に回した。周防・長門という小さな国が、文字通りのすべてを敵に回したのである。日本史上、これほどの危機的状況が他にあるだろうか。

 

すべてを敵に回した長州藩は、2つの大きな事件を体験する。

蛤御門の変禁門の変) vs. 徳川幕府

・ 馬関戦争 (下関戦争)vs. イギリス、フランス、オランダ、アメリ

 

f:id:TsukubaHospitalist:20210702212918j:plain

長州藩 vs. 列強四国の艦隊。勝てるはずのない前代未聞の戦争

 

蛤御門の変も、馬関戦争も、どちらも長州藩が完膚なきまでに敗れるという結果に終わった。恐らくは当時の誰しもが「長州藩は終わった」と思ったに違いないだろう。それほどの被害だった。この時期に長州藩は、久坂玄瑞など将来を有望視された人材も数多く失っているが、その惨憺たるや、水戸藩と同等か、あるいはそれ以上に血生臭いのである。

 

それでも最後に勝利を掴んだのは長州藩であった。信じられないことに、日本史上最大の危機的状況が、数年を経て日本史上最大の逆転劇に変貌した。なぜ、このようなことが可能だったのか。個人的には日本史におけるひとつのミステリーだと思っているが、それでも確実に言えそうなことがひとつある。

 

長州藩は、とかく運がよかった。*

 

蛤御門の変や馬関戦争の後、徳川幕府長州藩を征伐しようとするが、薩摩藩のスタンドプレーや第14代将軍・家茂の病死などの様々な要因が重なって、この長州征伐は失敗に終わる。この長州征伐の失敗が、徳川幕府の権威を失墜させた。その間に、長州藩では高杉晋作がクーデターを成功させ、藩の体制も倒幕を指向した新しいものになった。そこに、土佐藩坂本龍馬が持ち掛けた薩長同盟である。これらの要素が揃うことによって、完全に時勢は倒幕へと傾いた。

 

あれほど多くの敵を作り、あれほど多くの血を流した長州藩。なぜ、かくも運がよかったのだろう……。「花神」を鑑賞しながら、水戸藩と何が違っていたかを素人ながらずっと考え込んでしまったのである。

 

思うに、歴史の表舞台から「一発退場」を食らわなかったことが運命の分かれ道だったのではないか。確かに、長州藩尊王攘夷派はしばしば暴発した。しかし、その暴発の傍らには常に冷静な人物がいた。例えば、木戸孝允桂小五郎)。剣術の達人でありながら生涯一度も真剣を抜いたことがない。あだ名は「逃げの小五郎」、危うい場所を慎重に回避していた。そういった冷静な人物が暴発後も生き残って、戦いを続けることができたのではないか。冷静な計算に基づいた情熱的な「ネバーギブアップ」がそこにはあったのだと思う。

 

挑戦の末にどんなに危機的な状況に陥ったとしても、「一発退場」を食らいさえしなければ、やがては時勢が変わってきて大逆転を遂げられる可能性がある。少なくとも、日本のすべて、世界のすべてを敵に回して文字通りの四面楚歌に陥った長州藩は、それをやってのけた。「粘り強く戦い続ける」とはどういうことか。長州藩は100余年の時を越えて、今を生きる僕らに語り掛けてくれる。

 

* 補: 言うまでもなく、長州藩の人材の層が厚かったことも大きな要因だったであろう。松下村塾伊藤博文など明治の元勲を多く輩出したことはあまりにも有名だが、吉田松陰自身も長州藩主・毛利敬親から才能を認められていたようで、身分を問わない層の厚さという点が大きなポイントだったのかもしれない。大河ドラマ花神」の中に「長州藩は若者に甘い」という台詞があったのが強く印象に残っているが、そのような土壌で思想家(吉田松陰)、戦略家(高杉晋作)、技術者(大村益次郎)が揃ったからこそ、明治維新という奇跡的な革命を成し遂げることができた。そういう面も間違いなくあるだろう。