つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

手に吸い寄せられてしまう一冊

筑波大学附属病院に所属してから1年半、内科専門医資格の取得も目前に迫っているわけだが(専門医試験が延期されずに実施されるなら……)、今後どのように身を振るかまでは確定していない。少なくとも来年度は筑波大に在籍しようと考えているものの、その後は大学院に入って基礎研究をすることなども何となく念頭に置いているところである(所属する医局から「思う通りに生きよ」と言われている関係で、どんなテーマでどこのラボに所属するかは自分で模索中。医学部以外も含めて色々なラボを見学しながら考えている)。

 

大学院のことを考えると、転居のことも考えねばならない。が、転居は憂鬱である。というのも、蔵書が多すぎる(200尾のメダカを飼育していることも頭痛の種だが)。大学生時代の蔵書がだいたい5,000冊くらいで、医師免許取得後に初期研修医を始めるにあたって泣く泣く3,000冊ばかり処分した。残る2,000冊から4-5年かけて減らしていき、現在自宅にあるのが1,000冊くらい。その中には大学生時代に背伸びして購読していた医学雑誌も少なからず含まれる。今でも大好きな『medicina』は3年分くらいは置いてあるし、『胃と腸』や『胆と膵』も2年分くらい揃っている。感染症内科医ではあるが、もともとは親の背中をみて消化器外科を考えていたものだったから、意識して親が勉強しているのと同じ雑誌を自分でも独立に購読していたのだ。思い出の本ばかりでなかなか処分しづらい状況ではあるが、前に進むには過去の外科志望だった自分を切り離して進まねばならない。1年ばかりかけて本を吟味し直して、転居に差し障りのない蔵書数に抑えたいところである。

 

蔵書を処分するか、手元に残しておくかという線引きもなかなか難しい。処分した後に後悔した本もないわけではない。まず、文章を書くにあたって時々引用するような本は処分しない方が良いだろう。例えば、『源氏物語』、『平家物語』、『常用字解』、『中国名詩集』は処分しない方が良い気がする。逆に、医学書の多くは処分してしまっても良いのかもしれない。というのも、医学書に書かれている情報を用いる前に一次文献を調べてそこから情報収集することが増えてきたから。論文を読みふけるようになってから、医学書を読む機会は激減した。

 

それと、引用はしないけれども手元に残しておくべき本としては、やはり座右の書であろう。色々な人が色々な座右の書を紹介しているのをメディアなどで見かけるけれど、個人的に「座右の書」というのは、手持ち無沙汰の時に気がついたら手に吸い寄せられているような本を指しているのだと思う。読もうと思って読む本ではなくて、体の一部になってしまっていて、気がついたら読みふけっているような本。「読もう」と思って読むような本は、まず「座右の書」になり得ない。

 

現在手元にある自分の蔵書1,000冊の大半は、2-3周以上読んでいる。5,000冊から2,000冊に減らす時の基準が、1周読んで「もういいや」と満足したか否かだった。だから、いま手元にある1,000冊も十分精鋭部隊なのである。しかし、2-3周読む本は数多くあっても、10周以上読む本はそんなにはないものだ。10周以上読むというのは、「魂がそれを欲している」ということ。そういった本は、どんなに蔵書スペースがなくても手放してはいけないと思っている。とはいっても、大学受験時代の問題集などを除けば、10周以上読んだ本というのも限られてくる。

 

『はじめての漢方診療十五話』(医学書院)

慶應医学部・薬学部の漢方医学センターに大学5年生の頃から週に1-2回通って漢方医学を勉強していたのだが、その副読本。1周読んでもよく分からなかったが、2周読むと少しずつ用語に目が慣れてきて、3周読んでようやく漢方医学の全体像が分かってきた。この本との格闘を通じて、専門書は1周で全てを吸収しようとしてはいけないということを学んだ。1周目、2周目は目を慣らすだけ、3周目からが本番なのだ。初期研修医になってからというもの、漢方医学を自分に教えてくれる人がいなくなってしまったので、3か月~半年に1回くらい「漢方強化期間」なるものを作って通読するようにしているが、通読するたびに慶應での『傷寒論』『金匱要略』輪読会の時のことを思い出す。当時みたいに冷蔵庫から生薬を取り出して調合して好き勝手に飲むことができれば良いのになとノスタルジーに浸るのである。

 

『うまいケースレポート作成のコツ』(東京医学社)

タイトルの通りに症例報告を執筆するノウハウ本なのだが、そういった小手先の技術に留まることなく、医者としてどのように目の前の患者さんと向き合うべきか、リサーチマインドをもって診療するとはどういうことか……などなどの医者の心得を刻み込んでくれる名著である。なんというか、この本を読んでいると心が燃えてくる。日常診療というのは、(普通にしていると)延々と似たような症例の続く気怠い日々なわけだが、そんな中で生き生きと好奇心を持って診療することの良さを教えてくれる。「この患者さんは今までの同じ病気の患者さんとどこが同じで、どこが違うんだろう?」という考え方を無意識のうちにするようになる。ところで、この本を定期的に読んでいると高杉晋作の辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」が脳裏に浮かぶ。単なるノウハウ本に留まらないという意味で、類書よりも傑出しているのだろう。絶対に手放せないし、人に貸したくもない。……もっとも、この1冊で症例報告がPubMed掲載誌にバンバン受かるようになるかというと、そこまで現実は甘くないのだけれど。

 

『チャンドラセカール 移植・免疫不全者の感染症』(MEDSI)

400ページ程度の薄い本だが、移植・免疫不全者の感染症という幅広い領域を症例検討形式で漏れなくカバーしているという優れた一冊。Itoが感染症を志す間接的なきっかけになった本だが、さすがに専門ど真ん中の本なので、説明はこれくらいに留めておく。見たことのない疾患がたくさん掲載されていて心が躍る。装丁が綺麗で、デザインも素敵。初心を忘れないつもりで繰り返し読むようにしていたら、無意識のうちに繰り返し読むようになってしまっていた。

 

『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫

江戸時代の貝原益軒という医師の書いた本で、「腹八分目」の元ネタ。独自に追究した健康法が書かれており、現代的エビデンスに基づいていないなりに、まっとうと思えるような事柄が記載されている。江戸時代の人々が大切にしていた価値観も感じられて良い。ただItoが思うに、この本の白眉は、巻第六「択医」(医をえらぶ)のところではないだろうか(岩波文庫版だと、p. 123)。名医の条件、貝原益軒なりのプロフェッショナリズムが記載されており、その内容がとーっても熱い。引用すると長くなるので簡潔に記すが、仁術の担い手となるには、儒書に通じて万巻の医学書を読んで、患者さんを診察しては本気で考え悩み抜き、その経験を活かしながら前に進みなさいという旨のことが書かれている。貝原益軒の強い魂の声を聴きたければ、現代語訳ではなく当時の仮名遣いで読むべきである。

※ 最近はオスラー博士の『平静の心』(医学書院)が流行っているようだが、Ito個人としては貝原益軒の方がだいぶ心に響いたな。

 

『若き数学者のアメリカ』『遥かなるケンブリッジ』(新潮文庫

藤原正彦の留学体験記。最近の大学生は海外に行くことが多くて羨ましい限りだが、それでも大学生時代のItoのように金欠で海外に行くことを断念した人も多いのではないかと思う。諸事情により海外に行きたくても行けない人間が、「海外留学ってどんなものだろう?」と好奇心で手に取って魅了されてしまうのが、このエッセイである。人と人との交流をウィットに富む文体で生き生きと描いており、気がつけば読んでいる自分もその世界に没入してしまっている。この本を読んでいる間は、あたかも自分が留学しているかのような錯覚に陥ってしまうのだ。本をぱたんと閉じると、目の前にはいつもの日本の日常が広がっているのだけれど、「こんな自分でもいつか海外に留学できる時が来るかな? 頑張らなくちゃ!」と心を明るくしてくれる、まさに青雲の夢溢れるエッセイである。

藤原正彦のジョークの面白さは、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(ちくま文庫)を彷彿とさせる。知的でありながらクスッと笑わせてくれる本はそんなに多くない。あと、人と人との交流を描く達人として南木佳士という医師作家もいるが、『遙かなるケンブリッジ』の解説を南木佳士が書いているのを見た時には鳥肌が立った。

 

『自分らしく生きる』(講談社現代新書

Itoが20周以上読んだ唯一の本(唯一でないかもしれないが)。大学生時代に何気なく入った池袋サンシャイン通りブックオフの新書本100円コーナーに置いてあって、偶然手にした。ただ、この本とまさかここまで長い付き合いになるとは思ってもいなかったし、迷いが生じた時には必ず手元にある一冊である。以下、本の紹介文から引用。

君はいま、本当に心の充足を感じながら生きているか? 道具や機械、組織や制度に支配されず、本当に自律的な人生を生きているか?あり余るほどの“モノ”に囲まれ、情報や娯楽が氾濫する日常生活。過剰な生産=消費のサイクルの中で、自分らしさを失わずに生きるには、人はいったい何を必要とし、何を必要としないのか。現代を真摯に見つめてきた著者が、迷える若い世代に呼びかける熱い魂のメッセージ。

 

自分の道を選ぶには?――君が自分の人生にたいして高い要求をいだき、自分の本当にしたいことをして生きようと決意したとき、君はどういう問題につきあたるだろうか。《他律的に管理された生き方で満足するか、自律的な活動の生を選ぶか。その二者択一の決定をたえず自分でしなければならない》これが、君のつきあたる困難の第一だ。そして君が後者を選ぶ勇気をもつならば、君は、《自分の行為にたいする責任を自分でひきうけ、それによって生じるありとある危険をみずから担わなければならない》

さらに、目次からも引用。

● 自分の本当にしたいことが見つけにくくなっている時代に、君はどうやってそれを見つけるか。
● 立ちどまって、たえず「なぜ?」と問いかけねばならない。それが君の意識した自律的生活の始まりになる。
● 現在の状況のなかで新しい生のあり方を考えるには、原点に戻って今を見なければならない。必要なのはほんのわずかの想像力なのだ。

現代社会に吞み込まれることなく、どのようにして自分の人生の主導権を握り続けるかという命題をとことん突き詰めた本である。この現代社会に生きている中で何か心に引っ掛かりを覚える人社会の歯車に成り下がりたくないという思いを持っている人には是非読んでほしい。内容が古いという書評も確かにあるのだが、人間にとって大事な、普遍的なことがしっかりと書かれているように思う。

 

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人生の道標ともいえる一冊