つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

派を越えて —— 思考訓練としての <宗教>

これまでも何度もこのブログで称賛してやまないのだが、つくば駅前の市立中央図書館は学問への玄関口といった趣きで、足を運ぶ度に面白い本に出会うことができる。面白い本に出会うということは、面白い世界へと誘われるとも言い換えることができる。そんなわけで、この2年間は主に経済学の本を読んでいたのだが、最近は図書館全体を隈なく歩き回って、ジャンルを問わず心に引っ掛かった本であれば手に取って読むようにしている。

 

宗教学の本棚もある。信者のための宗教本ももちろんあるのだが、学問としての宗教学の本もかなり豊富に揃っている。この際、少しだけ勉強してみようと手に取ってみたのが、中村圭志『信じない人のための <宗教> 講義』(みすず書房)だ。文系出版社の代表ともいえるみすず書房の本を理系の人間が読んでいるという絵図へのちょっとした高揚感もあったし、パレスチナ問題を宗教レベルから理解できる自分を想像して期待を膨らませているようなところもあった。

 

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内科外来の合間にコーヒー片手に読書しています

 

それで、「この本、ちょっと難しそうだな……」と思いながらも、勇んで読んでみた。感想、紛れもなくこの本は名著であるというのがひとつ。しかし、この本を読んでも <宗教> は一切分からない。なんというか、<宗教> というものがよく分からない概念であるということがよく分かったというべきだろうか。内容が難しすぎてチンプンカンプンという意味では決してない。むしろ、非常に平易で分かりやすく書かれている。この本は、<宗教> というものに向き合う際の心構え —— さらに突っ込んで言ってしまうと、自分と異なる考え方を持った人間と向き合う際の心構えを説いた本のように思えた。どういうことか、少しだけレビューしてみよう。

 

まずはひとつ質問。あなたは何の宗教に入っているか? そう聞かれて即答できる人も一部いるとは思うのだが(例えば、創価学会とか天理教の人)、多くの人は「宗教やっていません」と答えるのではと思う。ところが、そんな人でも仏壇に手を合わせるし、先祖のお墓参りもするし、クリスマスを祝いもする。従って、ぼくらは知らず知らずのうちに仏教的行為、儒教的行為、キリスト教的行為をしているわけだ。だから「宗教やっていません」と100%否定するのもどこか引っ掛かってしまう。かといって、「自分は仏教と儒教キリスト教のミックスです」というのもおかしな話だ。

 

何が言いたいかというと、個人に対して「どの宗教に含まれるか」とステレオタイピングするのは至難の業であり、場合によっては危険だということだ。そもそも、先の「宗教やっています」と即答できる一部の人たちにしても、教義の解釈は人それぞれだ。キリスト教にはカトリックプロテスタントロシア正教など様々な教えがあり、それぞれの教えの下位概念として、協会などが並び立っている。同じ協会に所属している教徒どうしでも原典の解釈の違いなどから異なった信仰を持っているかもしれない。そういうわけで、<宗教> というグルーピングは学問上必要悪としてやらないといけないものだが、プラクティカルにはあまり厳密にはやり過ぎてもいけないのかもしれないという考え方に至るわけだ。

 

すると結局何が大切なのだろうという話になるのだが、個人的には「宗教から人を見るのではなくて、まず人を見て、その中で宗教の香りを感じよ」ということなのだと考えている。もっと簡潔に言えば、「先入観を持たずに人の話を聞きなさい」ということだ。人の話を聞いていると時々独特な考え方に触れることがあるが、そういった時にはじめて「なるほど、この考え方はきっとキリスト教のあのあたりに由来しているのだろうな」などと推察する —— そして、それくらいに留めておく。そういった姿勢が信仰のある人に対する適度な向き合い方なのかなと思う。逆の言い方をすれば、「話しもせずに肩書きだけで人を決めつけるな」という話でもある。

 

さて、少しだけこの話を拡張したい。日本という国は世界的には年々貧しくなっているわけだが、それに伴って「上級国民 vs. 下級国民」とか、「保守 vs. リベラル」とか、そういった対立構造が激化しているように見えていて非常に心が痛い。加えて、議論もだんだん幼稚になっているように見えるのだ。「自分は保守だから、▲▲という政策には賛成だ」みたいな感じの論調になっているように見えるのだが、これだと順番がオカシイ。「自分は▲▲という政策に賛成だ。そうすると、周りはきっと自分のことを保守側だと思うのだろうなぁ」—— こっちの思考様式(というか順番?)の方が真っ当なのではと思うのは自分だけではあるまい。保守でもリベラルでも、思ったこと考えたことを素直に言えばいいじゃないかってぼくは思うのだけれど、どういうわけかそれが全くできていないのが今の日本だ。

 

……ではなぜ人間が「ラベル(肩書き) → 意思決定」という思考回路に陥りがちなのか? それはラベル化することで脳への負担を減らすことができるからである(他にもチーム心理に基づく闘争心の要素とかもあると思うが割愛)。というのも、人間の頭脳はラベル化されていない概念を認識できないようにできているのだ。例えば、自分の家の窓をイメージしてみよう。きっとカーテンがかかっているのではないだろうか。それで、カーテンには束ねる帯がついていることが多いわけだが、その部分を「タッセル」と呼ぶようだ。この「タッセル」という言葉を知らないと、カーテンを束ねる帯も「カーテンの一部」くらいにしか認識することができない(あるいは認識すらしないだろう) —— それが人間の頭脳の仕様であり、ひとつの限界である。

 

誤解を恐れずにざっくり言ってしまうと、「名前がついて初めてその概念が存在する」という考え方を構造主義と呼ぶ(本当は色々と注釈を要するが、とりあえずソシュール言語学に基づく構造主義というのはそんな感じ)。それで、ラベル化すると物事を非常に理解しやすくなるので、ぼくらは無意識のうちにその力に頼ってしまいがちだ。しかし、ラベル化が時折ぼくらを思考停止させてしまうことがあるというのは、上述の通りである。例えば、目の前の人間に「リベラル」とラベルを貼ってしまえば、その人の全てを理解できた気になってしまうわけだ。近現代の成立を支えた構造主義的思考も、見方によっては一長一短。

 

日本が世界からポツンと取り残されて沈んでいかないためには、まず日本国内の不毛な対立をどうにかしなければいけないのではないだろうか。そのためにも相手にラベルを貼って罵倒し合うのではなく、まずは話を聞いてみるという基本的姿勢に立ち返ることが重要なのではないか。身内でしょうもない争いなんてしている場合なんかじゃない。論破なんて言ってゲラゲラしている暇があったら謙虚に勉強せい。英語ペラペラにならんでも別に良いから世界にもっと目を向けて、おのおのが自らの立場でできることを考えよ。みすず書房で <宗教> の勉強をしながら、自戒を込めてそんなことを考えていた。