つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

病院総合内科を一旦辞めることについて

2022年7月末をもって筑波大学附属病院の病院総合内科(レジデント)を辞して、同年8月から東京医科歯科大学茨城医療センターの総合診療科へと異動する予定である(正式な辞令が来ていないので、ポストに関する情報公開は控えさせていただく)。茨城県南の地域医療に関わるという意味で、活動場所はさほど変わらないのだが、それでも自分の中ではかなり思い切った決断をしたものだと思う。この決断があまりに急だったものだから、周りも驚いただろうし、ある先生からは「筑波に何か不満でもあったのか」と慰留していただきもしたくらいなので、なぜこのような決断をしたかは詳らかにしておいた方がよいかと思う。

 

結論からいうと、筑波大学に不満があったわけではない。むしろ、自分はまだ30歳にもならない若輩者だが、この僅かばかりの人生の中で筑波大学にいた2年強の日々は控えめに言って最高だった。その証拠になるかは分からないが、この期間、病気がちな自分の人生には珍しく1日たりとも病欠していない。自分のキャパシティとか身の丈にあったような、慎ましやかな生活を送ることができていたわけだ。自分にとって、こんなに適した職場は他にあり得ないだろう。じゃあ、なぜ辞めるのか? 目の前に途方もなく大きなチャンスがやってきていて、絶対にこれを逃してはならないと直感したからである。

 

そもそも筑波大学の病院総合内科に入った理由は偶然の連続だった。東大感染症内科の医局員として、医師3年目は東大病院で働いていたのだが、当時の教授と医局長が「来年はどこに行きたい?」と聞いてくれたのだ。それで「東大の関連病院ですよね。えぇと、S市立病院あたり……でしょうか」と口ごもっていると、「いやいや先生の行きたいところがあれば、そこと新しく連携する」と提案していただいた。我が家はちょっと厄介な家庭事情を抱えているのだが、そのことに配慮していただいた形だ。その温情に心から感謝しながら「では、筑波大学感染症内科に行かせてください」と返答したのであった。

 

……が、その時、たまたま筑波大学感染症内科に空席がなかった。「病院総合内科なら空席がある」ということだったので、何の情報も拾わずに承知してしまったのだが(振り返ってみると、人生って本当に上手くできているよなぁって思う)、その後に色々と調べてみると、病院総合内科の情報がほとんど公開されていない! 心底不安になったので、急遽アポイントをとって病院を見学させていただいたのだった。

 

2020年2月。ちょうど新型コロナウイルス感染症が東京で問題になり始めた頃だったが、その時点で茨城県の感染者はゼロだった。そこで当時の病院総合内科の科長にかけていただいたのが「筑波大学に東大でのノウハウを移植してほしい」「臨床だけでなく教育なども通じて診療科を盛り上げてほしい」という言葉だった。27歳の若造に対する言葉としては期待値が高すぎて、それに見合う働きができる自信までは正直なかったが、期待に答えたいという気持ちから、2020年4月に働き始める前から不思議な高揚感があったのをよく覚えている。

 

それで実際に働いてみると、併存症が多すぎる症例や社会的に難しい症例ばかりで、(こう言うと怒られそうだが)どこの診療科も絶対に診たがらない類の症例が大半を占めていた。病気を治しながらも、リハビリを進めたり、長期計画を立てたり、場合によっては患者と対立する家族との仲を取り持ったり……と、まぁ、考えることが多かった。それまで感染症科医としてコンサルタントをしていたわけだが、今までの自分は病気ばかりで人間を診ていなかったのだなぁという大きな気づきを得ることができた。

 

難しい症例を相手にしていると入院が長期化するものだから、しばしば医原性合併症に悩まされる。そこで、感染症科時代に学んだ予防医学がどれほど役に立つものかも自分なりに試行錯誤してみた。結果としては、劇的に合併症が減って、医師4年目後半(筑波での1年目後半)あたりから本当に仕事が楽になったのが印象に残っている。そんな具合に、成功経験や失敗経験を繰り返している中で、自分の中に「下手に戦わない勝ち方がある」という信念、あるいは哲学のようなものを閃いたのも大きな収穫だった。折しも、東大時代からの真菌検査の不適正使用の臨床研究とも時期的にオーバーラップしていたので、臨床面と研究面から同時に "compact medicine" (控えめな医療)なる自分なりのやり方を編み出すことができたように思う(フィジカルもメンタルも弱い自分なりの最適解)。

 

"Compact medicine" を構想し始めた頃から、医療現場の理想的な形もかなり具体的にイメージするようになった。医者も患者もコメディカルも全員が絶えず不満を抱いている現代の医療現場には、かねてから強い問題意識があったのだ。詳細は割愛するが、"compact medicine" の方法論で医原性合併症を撲滅できれば、医者も患者もコメディカルも全員が幸せになれる(製薬会社だけ損する)。総合内科と名乗る場所は一般にブラックなところだとよく言われるけれど、そういった小さな工夫を積み重ねていけば、総合内科こそホワイトな診療科と呼ぶに相応しい場所になるのではないか。そう考えるようになってからは、診療科の運営にも少なからず興味が湧いてきて、自分なりに組織マネジメントに関わるようになった(並行して図書館で片っ端から経営の本を読み込むようになった)。

 

経営の教本を1冊選べと言われたら、迷わずこれ。自分は『ティール組織』も好き

 

他の診療科との外交もよくやって、時には成果もあったし、たまにどうしようもないような地雷も踏んだ。多くのことを任せていただいたが、自らの責任で自分の職場を作っていくプロセスが、この上なく楽しかった。「この世知辛い世の中に理想郷を作ってみせる」という気持ちが終始あった。こうしてみんなと一緒に作り上げていった病院総合内科は、今では研修医の先生方にとっても魅力的な場所になりつつあるようだ。ある初期研修医の先生からは「勉強になるけどブラックではなくて、とにかく丁度いい総合内科」というコメントを頂戴した(実際、教育病院と名のつくところも基本的にブラックであり、病院総合内科をそのアンチテーゼにするという目標を達成したいと思っていた)。そういうわけで、なんとしても2年連続で新歓を成功させたいと思っている。

 

自分は医療従事者という括りではかなりの問題児に分類されると自己評価していて、実際に筑波でも数々の問題を起こしていたように思う。とりわけ体力がないせいで、単純な労働力という観点からは完全に劣等生なのだ。筑波大学の病院総合内科に来て最もありがたかったのは、そういった問題だらけの人間であるにも関わらず、長所を信じて自分に積極的にリソースを割いていただけたことだ。問題児であることも含めて存在を肯定されていたというか、居場所がしっかりとあったというか。自分のように無茶な人間が2年以上在籍できていたという事実がひとつの証拠と言ってもいいだろう。

 

今後、東京医科大学茨城医療センターに移る理由は、疫学の専門家から疫学研究の手法を学んで、今後の自分のキャリアに生かしていきたいというものだ。それ以外の動機は一切なく、この目標を達成したら、あるいはこの目標が何らかの理由で達成できないことが判明したら、自分は人生の次のステージへと足を進めていこうと思っている。その人生の次のステージをどうするかまでは全く考えていないのだが、自分としては自身の信念・やり方に背きさえしなければどんな進路でも構わないと思っている。筑波大学に復帰して理想郷作りを再開するのは今でも凄く魅力的な選択肢だし、東京医科大学に残るかもしれないし、家庭事情が解消すれば東大の医局人事に乗るかもしれないし(ただし、東大を理想郷に変えられる自信はゼロ)、もしかしたら気まぐれで浪人(憧れの高等遊民? 隠居人?)になるかもしれない。要するに主たる進路に関してはノープラン。一応、自分がクビにされた時にどうするかまでは想定してあるが……。

 

ただ、自分としてはノープランで一向に構わないと思っている。長期目線に立って、人生が楽しくなりそうな場所に常にいるようにしたい —— あんまり深いことは考えない。三十六計逃げるに如かずで、つまらなくて不毛な事柄で人生を消耗するような事態に陥ったら、その時は恥も外聞もなく逃げ出そうとも決めているのだ。せっかくの人生(YOLO: You only live once.)なのだから、色々なことを試して、色々な失敗をしてしょうもない笑い話をたくさん作りながらも、少しずつ成功へのプロセスを堪能していきたいなーなんて考えている。ちなみに、こういう人生の大前提として最も重視しないといけないのは、自分自身が健康を維持しながら能力を磨き続けることだとも考えている。要はスマイルである。作り笑いすらできなくなったら、そこが仕事の辞め時だ。

 

最後に、2022年7月31日までは血の一滴に至るまで、筑波大学附属病院 病院総合内科の人間であり続けるつもりだ。また、8月1日からは、東京医科大学茨城医療センター 総合診療科の人間として、それに相応しい振る舞いをしたい —— このように自分なりに筋を通すことに関してはご了承いただけるとありがたい。そして、筑波大学での2年間、自分の周りは本当に素敵な人たちばかりだなと感じる日々だった。アウトサイダーでありながらも快く自分を受け入れていただいた皆さんには、感謝の気持ちしかない。最初から信頼していただいていたのがよく伝わったからこそ、自分も周りを信頼して自分なりにできることを実践することができたのだと思うのだ。