つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

臨床における問いの立てかた

はじめに

つまらない臨床業務

いちど医者になると、毎日ひたすら臨床業務に追われることになる。患者さんが入院すると、病気を治療して、患者さんが退院していく。また患者さんが入院して、治療を挟んで退院して……という、割と同じことの繰り返しだ。実のところ、患者さんに対する診療行為を賃金と引き換えの単純作業にしてしまうと、臨床というのはなかなかにつまらない。特に知恵が回る医師の場合は、初期研修医の最初期の段階でこの事実に気がついてしまって、やるせなさを感じてしまうこともあるかもしれない。

つまらなければ無理にでも楽しむしかない

高杉晋作の辞世の句に「おもしろく こともなき世を おもしろく」というものがある。下の句として伝わる「すみなすものは 心なりけり」という部分は後世の創作かもしれないと言われているが、それにしても上の句の部分は何度も頷いてしまうところがある。心の「強い」医師であれば、繰り返される臨床業務に伴うニヒルな気分にも侵されず済むのだろうが、自分は「弱い」医師なので、日々の業務にどうしてもやるせなさを感じてしまう。それでは、どうやってこの気持ちを克服するか? どうやって日々の臨床に新鮮味を吹き込んでいくか? こういったところに、この仕事と長く付き合っていくコツがあるはずだ。

 

職場で「研修医向けにレクチャーしなさい」と言われたのでスライド作成中……

 

Contents

 

失敗が "許されていない" いまの臨床研修

最近の臨床研修は5年前よりも手厚い

ここからは、臨床業務からリサーチマインドへの過渡段階を示していこうと思う。いまの臨床研修は非常に恵まれていて、上級医からの手厚いサポートがあるので、患者さんを診療している中で取り返しのつかない失敗するリスクがかなり抑えられているように思う。例えば、自分の今の職場でも研修プログラムの一環として「内科外来研修」というのをやっているが、そこでは「検査オーダーを出す前には上級医と相談してから」という決まりになっている。これには、「検査をした後に検査したりない項目が発覚すると、再度検査し直す手間がかかるから」という合理的な理由がある。検査し直すと医師だけでなく患者さんにも余計な負担や時間をかけてしまうことになるわけだ。他にも、患者さんのせん妄などで研修医の先生が夜間に病院から呼び出しを受けるというのも減ってきているようだし、良い意味で研修医が守られている時代になったものだと思う。

失敗を許されていない不幸?

ただ、裏を返せばいまの研修医の先生方は失敗することを許されていないという見方もできる。語弊を恐れずに言えば、失敗することができないのはとても不幸なことだと思うのだ。というのも、失敗すると恥ずかしくてしょうがないし、夢にも出てきてしまうことがある。しかし、それだけのインパクトがあると「同じ失敗をしないようにするにはどうしたらよいだろう」と自己フィードバックがかかってくるものだ。たとえ同じ所作であっても、酷い失敗経験に裏打ちされているのか、それとも先人が作った綺麗な方法を模倣しただけなのか —— ここには天地ほどの差があるように思う。

失敗から成長する葉隠サムライの話

失敗経験といえば、『葉隠』にも面白いエピソードが書いてあった。ある男を昇進させようと重役会議があったのだが、その男は酒で大失敗をしていたために「この男を昇進させる必要はない」という結論になりかけた。そこで重役のひとりが「一度過ちをしただけで人を捨ててしまうのでは、人材がいなくなってしまう。失敗した人間はむしろそれを後悔して、その後の振る舞いに気をつけるようになるもの。だからこそ、取り立てるべきだ」「失敗のない人間など、危なくて大任は任せられない」と発言。結果として男は昇進することになったのだが、この重役会議の話を聞いて感激して誠心誠意働いたのではないだろうか。

何がし立身会議の時、この前酒狂仕り候事これあり、立身無用の由衆議一決の時、何某申され候は、「一度誤これありたる者を御捨てなされ候ては、人は出来申すまじく候。一度誤りたる者はその誤を後悔いたす故、随分嗜み候て御用に立ち申し候。立身仰せ付けられ然るべきなり」由申され候。
何某申され候は、「その方御請合ひ候や」と申され候。
「成程某受に立ち申し候」と申され候。
その時何れも、「何を以って受に御立ち候や」と申され候。
「一度誤りたる者に候故請に立ち申し候。誤一度もなきものはあぶなく候」と申され候に付て、立身仰せ付けられ候由。 

——『葉隠』 聞書第一 五十

 

失敗経験からこそ「なぜ?」が芽生える

気管支喘息」の高齢者

自分も臨床でたくさん失敗経験をした(これからもするだろう)。例えば、気管支喘息の高齢者が救急外来にやってきて、喘息治療の吸入薬を使って治療をしていた時のこと。基本的に、気管支喘息は吸入薬を適切に使用すれば、多少なりともゼーゼーする症状は改善するものだ。ところが、その患者さんはなかなか改善せずに、吸入中もゲホゲホ咳を繰り返していた。「変だなぁ」と思いつつも、「まぁ、そういうこともあるか」と思って、その日は薬を渡して帰宅してもらった。果たして、その患者は翌日に他の医者を受診して、肺炎と診断されてしまうわけだ。この経験を通じて、「治療抵抗性の△△病を見たら、多分△△病ではない(or 他の病気を合併している)」という教訓を得た。

気管支喘息」の若年女性

また、別の時には30代の女性がゼーゼーと息苦しさを訴えて救急外来を受診したことがあった。この女性に話を聞くと、むかし小児喘息をやったことがあるとのことだった。「長いブランクを経ての再発かぁ。まぁ、そんなこともあるかな」と思って、吸入薬を使ったらアッサリ治ったので、この時も薬を渡して帰宅してもらった。そうしたら、翌日も同じ症状で救急外来を受診していて……結論からいうと、子供がマイコプラズマに感染していて、それをうつされて気管支喘息を起こしていたというオチである。当然、根本たる原因を治療しなければ気管支喘息も難治化するというわけだな。この経験を通じては、「患者さんが病気を発症した時には『なぜ他ならぬこのタイミングで?』と考えるようにする」という教訓を得ることができた。

どっちの経験も凄くよく覚えている!

これらの失敗経験は、両方とも5年前の話である。5年前の話だけれど、いまでも患者さんの顔を思い出せるし、恥ずかしくて頭が熱くなった感覚まで再現できる。失敗経験というものは、心にしっかりと痕を残していくものなのだ。そして、臨床がうまくいかない時に「どうしてうまくいかないんだろう?」「どうすればうまくいくんだろう?」と考えながら、先輩から意見を聞いてみたり、文献を読み漁ってみたりすると、能力を着実に伸ばすことができるのではないかと思う。臨床現場で失敗する度に自己フィードバックをかけていくことで、自分の臨床の腕がカイゼンされていくプロセス —— これはなかなか充実感があって良いものだ。

 

基本知識の徹底からも「なぜ?」が芽生える

典型的か、非典型的か

これは特に「総合診療科」とか「総合内科」を標榜する場所に当てはまることだとは思うのだが、日々のプラクティスで相手にする疾患は大部分がありふれた疾患(コモンディジーズ)だ。コモンディジーズばかりを「普通に」診療していると、間違いなく飽きが来ることだろう。そんな面白くないコモンを面白くするためには、どうしたら良いものだろうか? —— ひとつお勧めしたい思考法が、目の前の患者さんの疾患が「典型例」なのか「非典型例」なのかを分類する方法。具体的には、腹痛患者さんで虫垂炎(一般でいうところのモウチョウ)を疑った際に、「どこが虫垂炎らしいか?」「どこが虫垂炎らしくないか?」というのを列挙する癖をつけるのだ(千葉大学の総合診療科の手法らしい)。こうして臨床推論を進めていくと、目の前の患者さんが虫垂炎である確率をある程度パーセント化して評価することができるし、検査などで虫垂炎らしくない結果だったとしても軌道修正しやすくなるという効果がある。こういった訓練を積み重ねていくと、やがては問診と腹部診察だけで虫垂炎と回盲部炎と憩室炎をある程度鑑別できてしまうようになる……のかもしれない。

典型例なんてものは、本当は少ない

そういう癖をつけていると、ふと気がつくはずだ ——「真に典型的な症例は意外と少ないのではないか?」と。そうすると、今度は目の前を通り過ぎていたコモンディジーズの患者さんひとりひとりが何かしら非典型的な要素を持っていることにも気がつけるようになるので、臨床も楽しくなるわけだ。で、この非典型的な要素をちゃんと文章にすると、立派な症例報告が1本書けてしまうわけ。だから、「症例報告のネタになる珍しい症例がない」と嘆く前に、目の前のありふれた疾患の患者さんをよく観察してみるのが良いと思う。どんな患者さんの経過にも、どこかしら妙なところがあるものだから。—— ちなみに、上級医の中には「教科書通りの症例なんていない」と学生さんや研修医の先生に教えている人が時々いるのだけれど、そういう上級医を見かけたら「じゃあなんで症例報告を書かないんですか?」とすかさず聞いてみるのがよろしい。ほぼ100%の確率でその上級医から嫌われることを保証する。

 

「なぜ?」の連発が単調な臨床を面白くする

こんな感じで素朴な疑問を抱いて「なぜ?」と問いかけを発しながら臨床をやっていると、意外と答えが出ていない疑問も見つかってしまうものだ。そんな時こそ、自分の手で臨床研究をやってみるのが良いと思う。自分で未解決の疑問を抱いて、自分の手で解決して、それを論文として世界に発信する。好奇心も満たされるし、自分の名前も永遠に刻まれることになるのだから、学者肌の人間にとってはこれほど心満たされる場面もないだろう。

しかし、良い疑問というのは、臨床をしっかりとやっていないとなかなか抱くことができない。机に座ってイケている疑問を頭で捻り出そうとしても、陳腐で解決済みの疑問しか思い浮かばないもの。そんなふうに考えると、研究をやるというのは、日頃の臨床業務を頑張ってきた自分へのご褒美とも捉えることもできるわけだ。こんな感じにアカデミックマインドを以って臨床をやっていれば、単調な日常も色鮮やかになっていくのではないかと思う。

 

まとめ

臨床から研究への橋渡しで大事な要素

サマリーとして、個人的にこれと思うのを列挙してみる。

● 目の前の症例のどこが典型的で、どこが非典型的なのかを明確にする。
● 全ての疾患に、より根本的な原因があると仮定した上で、突き詰めていく。
● 教科書やUp to Date®などを読んで何が典型例なのかを完璧に知っておく。

臨床目線と研究目線を行き来しながら医者として日々を生きていると、繰り返される日常の光景を一期一会の心持ちで「鑑賞」できるようになるのではないかと思う。自分のような臨床ぎらいが臨床を続けようというのなら、こういう考え方でやり続けるのも悪くないと思うんだ。

参考になりそうな一冊

臨床から研究への過渡的な部分、リサーチマインド関連でいけば、『めざせ!外来診療の達人』(日本医事新報社)をおすすめしたい。この本は医学生や研修医向けの症例検討会の白熱議事録といった趣なのだが、「この症例のどこが△△病らしくて、どこがらしくないか?」という議論をひとつひとつの鑑別診断に対して丁寧にやっている。千葉大学の総合診療科の常套手段がこれでもかというくらいに披露されているので、非典型例の見破り方の参考にもなるのではと思う。