つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

"きれいな" 臨床のコミュニケーション

最近、YouTuberとしての活動もはじめてみたのだが、実に不思議な気分である。というのも、チャンネル登録者数は案の定、2桁を少し越えたところで止まっているし、アップロードした動画の再生回数も3桁に届かない。しかし、色々なYouTuberの書籍を読んでいると「最初は視聴者がつかないもの」と何度も強調して書かれていたし、「とにかく続けることが大事」みたいだとシツコイくらいに聞き及んでいるものだから、最初の立ち上がりが悪いのも致し方なしかなくらいに軽く考えているわけだ。というか、YouTuber以外にもやっている活動が多岐にわたっている関係で、YouTuberとしての伸びが悪くてもそれを嘆いている余裕がない。そんなわけで、気長にやっていこうと思う。

 

動画編集についても、最初はAviUtlのクセの強さや面倒くささに圧倒されっぱなしだったのだが、やっているうちにだんだん慣れてきた。こういうクセの強い技術系のやつは、毎日触れて日常生活の一部にしてしまうのが良いのではないかと感じている。実際に、10分程度の動画で字幕を入れるのでなければ、1時間くらいで作ることができるようになってきた。初めての時は1分の動画に3時間くらいかかっていたので、急峻な学習曲線が描かれているわけだ。ただし、字幕を入れるのだけは本当に面倒くさくて、AviUtlで断続的に字幕を入れる場合はタイミング調整が非常にしんどい。かといって、VrewのようにAIが勝手に字幕を入れてくれるシステムを使っても、自分が動画で口にする言葉の大半が専門用語である関係上、正しく拾ってくれる頻度がどうしても少ない。AIが字幕を代行してくれても、かなり綿密に内容を確認しないといけないので、これまた骨の折れる作業なのである。

 

そんな苦悩と戦いながらも、動画作成自体はなかなか楽しい作業だと思っているので、今後とも続けていきたいと考えているわけである。続けていれば上達するかというと、必ずしもそうとは言い切れず、むしろ上手くいっているYouTuberの手法を見て盗む過程が今後必要になってくるのではないかと思う。同じYouTuberの動画を自分が見るにしても、きっとYouTuberデビュー前の自分とデビュー後の自分とでは見え方がだいぶ変わってくるに違いない。そういった世界の見え方の変化も楽しんでいければいいなと感じている。

 

ところで、読書習慣も相変わらず継続していて、週に1冊は職場の図書館で医学書を借りて味読するするようにしている。医学書といっても、ゴリゴリにプラクティスを書いた本はあんまり読んでいなくて、むしろ医療倫理の本とか、ティーチングの本とか、そういったノンテクニカル・スキル系の本を読むことが多い。なんというか、自分自身で医療行為を行うのも良いと思うのだが、後輩たちをみていると彼らの方が優秀なんじゃないかと思う瞬間を何度か経験していて、この半年ばかりは彼らのモチベーションや能力を伸ばせるような先輩になりたいという気持ちが高まっているのだ。どうすれば後輩たちと "お互いに幸せな" 助け合いの関係を築き上げることができるかというのも、自分の中で大きな課題となっている。後輩たちのやりやすい先輩になると同時に、後輩たちには助けてもらいたい。そんなふうに考えているのだ。

 

それで、よく後輩たちと雑談もしているのだが、救急外来はいわゆる社会の窓であり、雑談の話題に事欠くことがない。目の前の患者さんを医学的に理想的な状態で治す方法とは別に、どこにその患者さんの幸せってあるんだろうか……みたいな話をよくしている。議論という類のものでは全くなくて、答えのない問題についてとりあえずボールを投げて一緒に考えて、でもやっぱり答えが出なくて、ただ考えたという充実感が残るような……そんな感じのひと時だ(完全に自己満足である反面、まったくの無意味とも思わない)。それと関連して偶然手に取ったのが、國頭英夫先生の『「治る」ってどういうことですか』(医学書院)という一冊だ。

 

「里見清一」としても知られる國頭先生の本がつまらぬわけがない

 

がんの告知をはじめとする医療従事者と患者さんとのコミュニケーションには、確かに方法論が存在する。しかし、その方法論だけで混沌とした臨床現場をやっていけるかというと、全くそんなことはない。自分のように医師6年目と経験が浅くても、嫌というほどよく分かる。患者さん本人は知りたがっているけれども、家族は本人に病気を教えるななんて場面は何度でも経験する。このような板ばさみにどのように対応すればよいのか。認知症のある患者さんの発言はそのまま受け取らずにキーパーソンの意見を受け入れるようにと言われるが、認知症があるからといってそれを患者さん本人の意向ではないと断じてしまって本当によいのだろうか。患者さんに「大丈夫です」と説明したいけれども100%大丈夫なんて医療はないわけで、そんな時に「99%大丈夫です」と説明するのってどうなんだろうか。そういった医療現場における悩ましい問題が多数取り上げられている。

 

「患者さんの発言を傾聴すればよい」「患者さんに寄り添えばよい」……臨床教育の場では難問題に対してそういった "答え" が提示されているが、当然、そんなきれいに片づけられる問題では決してあり得ない。患者さんも様々であり、それこそ色々な場面で使う "妥当な言い回し" とか "無難な言い回し" というのはあるけれども、ひとつの正解なんてものを安直に追い求めてはいけないのだ。結局のところ、医療従事者は患者さんと真剣に向き合うしかない。当たり障りのない言葉を弄してサラッとしたきれいな医療面接を演出するのではなく、しっかりと患者さんに時間を割くことが大切なのだ。忙しいのが医療従事者の性質だが、決して忙しくなり過ぎてはいけない。患者さんを人間として扱い続けるためにも、決して多忙による焦燥感に身を焦がしてはいけない。自分の信念をより一層強めた一冊だった。