つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

意志と表象としての世界について

読書の中でも、哲学書は敬遠されがちである。言葉遣いが難しいし、分厚いし、読んでいると堂々巡りしているような気持ちになる。なかなか実用的な教訓を得られないということで、結局手が伸びてしまうのはハウツー本のように即効性のある書籍だったり、小説のように心をくすぐってくる書籍だったりするわけだ。

 

つくば Roji(美味しかったけど、だいぶ贅沢してしまった……汗)

 

なぜ哲学書の言葉遣いが難しいのかといえば、議論を厳密にするために言葉も厳密に定義しているからだ。言葉遣いを下手に平易にしてしまうと —— 特に、変な言い換え表現を多用してしまうと —— 後世に誤読されるリスクがどうしても生じてしまう。なぜ哲学書の多くが分厚いのかといえば、ひとつには哲学では議論を定義からひとつひとつ積み上げなければならないからで、もうひとつには反論を事前に想定してあらかじめそれを封じるような議論を盛り込んでいるからである。さらに、堂々巡りしているように見えるのは、哲学が難解であることを著者自身が理解していて、同じことを違う角度から何度でも伝えようとしているからというケースが多い。

 

いずれにしても、哲学書を読んでいて、言葉遣いが難しかったり、分厚かったり、堂々巡りしているような感じがしたりするのは哲学の性質上必然的なものではあるのだが、現代の読者としてはたまったものではない。読むたびに頭脳を雑巾のように絞られているような感覚に襲われ、その頭痛に思考が悲鳴する。それでもなぜ哲学書を読むのかといえば、それは定期的に頭にハードな刺激を与えるためとしか言いようがない。ビーフジャーキーとか、スルメとかを噛みながら、嚙み切れないフラストレーションを楽しむ。そんな感覚だろうか。そして、哲学書を読んだ後に論文を読み書きすると、これが不思議と捗ってしまう。哲学書の読解に難易度で勝る思考というのは現世で他になく、哲学書でウォーミングアップしておくと大抵の知的作業は(実際に容易いかはさておき)容易く感じられるようになるものなのだ(ま、要は脳ミソを廃用させないためのトレーニングということじゃ)。

 

最近読んだ哲学書に、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』という書籍がある。この書籍も哲学書の例に漏れず、なかなか難しい。ただし、カントやハイデガーは言うに及ばず、ヘーゲルニーチェの著作よりも読みやすい印象ではあった。プラトン哲学の伝統的な系譜を忠実に引き継いでいるからだろうか。プラトンイデア論と対応付けながら読解すると、難しいなりに比較的読解しやすい気がするのである。

 

いわく、タイトルのごとく「世界は意志と表象から成り立っている」との由。「表象」とはなにか。「表象」とは「主観」と「客観」である。「主観」とは「認識する存在」であり、「客観」とは「認識される存在」である。しかし、「主観」と「客観」は区別されるものではあるが、別々のものではない(同じ現象に対する違う表現といえば分かりやすいだろうか)。例えば、目の前に机がある。「客観」で表現すると、机が特定の時間・特定の座標に設置されていることになる。しかし、これは「主観」でも表現される —— そこに机があると認識しているのは自分自身だ。すなわち、机は自分自身の内にある。言い換えれば、認識しなければ机も存在しないということになる。ショーペンハウアー哲学に特異なところがあるとすれば、「主観」と「客観」を相反するものと見なさずに両方とも認めているところのように思う。そして、「主観」と「客観」の両方をひっくるめた世界の有様をショーペンハウアーは「表象」と表現しているわけだ(間違っているかもしれないけど、吾輩はそう理解したよ?)。

 

しかし、この「表象」だけでは世界の成り立ちを説明することができない。例えば、モノが落下するのは重力のせいではあるが、その重力は冷静に考えれば説明不可能だ。もちろん、数式で説明できると言われればそれまでなのだが、その数式自体も所詮は人間が作り出したものに過ぎないから、(現状矛盾をきたしていないだけで)完全に正しいという保証はない。こういった根本のところで説明しきれない意味不明なもの(原理)が世界には溢れている。これをショーペンハウアーは「意志」と表現しているのである(この「意志」、カント哲学でいうところの「物自体」に該当するようなのだが、カント哲学自体が難解なので、これは却ってよくない喩え方だ)。ショーペンハウアーのいう「意志」を現代人に一番しっくりくるように説明するならば、「STAR WARS」に出てくる「フォースの導き」のようなものと考えておけばよかろう(そう頭の中で置き換えながら読んだら意外とすんなり読み進められたのだけど、ちょっと安直すぎるかな?)。

 

さて、「意志」と「表象」は、先に少し触れたように、プラトンイデア論と対応しているように思われる。すなわち、「意志」はイデア界で、「表象」は現実世界……このあたりは、高校倫理を履修していればピンと来るところかもしれない(現実世界はイデア界の投影に過ぎないというのがプラトンの主張であり、以降の西洋哲学は様々な形でこの哲学の影響を濃厚に受け継いでいる)。プラトン哲学やカント哲学をしっかりと理解していれば、もしかしたらショーペンハウアー哲学ももう少し深いレベルで理解できるのかもしれないと思うところがある。

 

ところで、ショーペンハウアーのいう「意志」はなかなか厄介な問題を含んでいる。「人間が生きて存在していること」もここでいう「意志」に含まれているのだ。人生には苦しいことがたくさんあって、最終的には死んでしまうことだって人間はよく知っているのだが、それでも人間は生きようとする。動物を殺して食べもするし、競争で他人を出し抜きもするしで、そこにはある種の醜さがある。しかし、「なぜ人間は生きているのか?」—— これは答えようのない根本的な問い(原理)である。そしてショーペンハウアーによると、人間が生きていることに根拠を見出すことはできないとのこと。根拠を見いだせないにも関わらず、人間は生きるために努力しつづけ、苦しみもがき続けるのである。まさに「一切皆苦」であり、ショーペンハウアー哲学が「厭世哲学」や「ペシミズム」といった言葉で形容されるゆえんもここにあるわけだ。

 

なにはともあれ、ショーペンハウアーは「意志」という名の人間の存在そのものをネガティブに捉えたということだ。なお、『意志と表象としての世界』に少なからず影響を受けた哲学者にニーチェがいるのだが、そのニーチェショーペンハウアーのいう「意志」を自身の哲学の中に引き継ぎつつも、「力への意志」という概念を新たに生み出して、ポジティブに捉えたことで有名だ。

ショーペンハウアーを読んで、はじめてニーチェのいう「力への意志」とか「超人」とか、あとは「神は死んだ」という言葉とかが少しだけ分かったような気がする。もっとも、これも吾輩の勘違いなんだろうなーなんて思っている。

 

……とまぁ、ここまで書いていると頭が痛くなってくる。そもそもカント哲学がよく分からないのにショーペンハウアー哲学を自分なりにまとめようというのが無謀な行為だった。しかし、このように概念的でよく分からんものと格闘していると、脳ミソがこってりと絞られて、創造的な作業も捗るというもの。さて、頭の体操が終わって心地よい頭痛が現れはじめたところで、論文の続きを書くことに致そうか。