つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

手水場の紅葉を眺めて臥せる床

茨城県内で勤務するようになってからは比較的健康に過ごしているのだが、久しぶりに我が家の手水場に紅葉を散らすことになってしまい、多忙による五臓六腑の負担を実感することになった。少しばかり休養する必要があると思い、最近は仕事がない時は努めて臥床するようにしている。暴飲暴食はこれまでも避けていたのだが、このところはさらに意識的に「腹八分目!」と自分に言い聞かせるようにしていて、どんなに食欲が勝っていても自制するようになった。こうして自己流の「養生訓」を実践する中で、少しずつ体力を取り戻しつつはあるものの、やはり自分は体力に恵まれないなぁと再認識するわけである。楽しみにしていた後輩との食事会もさすがにキャンセルした。

 

そんなわけで、いま病院で普通に仕事をしてはいるのだが、帰宅後は横になっている時間がだいぶ増えているのが現状だ。さもないと身がもたない。それで、横になっていると暇で退屈でイライラしてくる……かと予想していたのだが、案外そうでもないところがまた面白い。いままで常にアイデアや仕事のことで頭がいっぱいになっていて、それらから解放されている状態が余程珍しかったのだろう。布団にくるまっていると、頭の中がかつてないほど清々しくなっていくのを感じるのだ。そして忙しい日々を振り返っては、自分はつまらぬ資本主義社会に踊らされている一個の木偶人形に過ぎないのかもしれないと唐突に思い、フッと自嘲の笑みを浮かべるのである —— 人生ほど滑稽で馬鹿げたお遊びも他にあるまい、あと何年踊ってやろうかしら。そんなしょうもないことを漠然と考えながらも、病で臥せっている状態に奇妙な幸福を感じていたのは間違いない。病に臥せることで、この過剰に無機質で機械的現代社会にささやかな反撃ができてしまうことに気がついてしまうのである。

 

日常を考え直すには良い哲学書(この手の本の中ではかなり読みやすい)

 

最近読んで感銘を受けた本に、国分功一郎『暇と退屈の倫理学』がある。この本は、記憶違いでなければ自分が大学4年生か5年生の頃に単行本が書店に並んでいて、当時読もうか読まないかだいぶ迷っていたのをよく覚えている。それで、当時は結局読まなかった。しかし、読まなくて正解だったのかもしれない。というのも、読書というのはタイミングを誤ると途方もなく大きな機会損失につながることがある。例えば、若い時に夏目漱石を読んで「夏目漱石というのはこの程度のものか」という固定観念ができてしまうと、いざ読める年齢になった時に夏目漱石の小説を手に取らなくなってしまう可能性があるのだ。おそらく、大学生時代の自分が『暇と退屈の倫理学』を手に取ったところで、その意味するところをちゃんと理解することなく読み流してしまっていたのではないかという気がする。そういう意味で『暇と退屈の倫理学』の文庫化が令和の世になってからだったのは、自分にとって僥倖であった。

 

『暇と退屈の倫理学』では「退屈」の概念を3つに分類するなど、様々な論考を展開しているのだが、今回その話題は脇に置いておこう。むしろ、この論考の出発点にある問題意識がとても刺激的だったので紹介したい。むかしの資本主義社会は「労働力の搾取」といわれていたが(今もその要素は残っている)、いまの資本主義社会は「暇の搾取」になっているというのが論考の出発点になっている。というのも、人間は豊かさや幸せを求めて努力してきたわけだが、こういった目標が達成されると人間というのは打ち込むべき仕事がなくなってしまうので却って不幸になってしまうものだ。この人間の不幸を、高度消費社会としての資本主義は決して見逃さない。高度消費社会の担い手たる生産者は、広告などを通じて無理矢理にでも需要を "発明" する。例えば、スマートフォン。なくても実は死ぬことはないのだが、しかし、気がつけば社会生活の必需品もどきになっていて、一度手にした者は手放せなくなっている。こうして、消費者の欲望は留まるところを知らず生産者によって "発明" され続け、気がつけば空虚な時間つぶしによって消費者の人生が "消費" され、結果的に「暇の搾取」が生じているというわけだ。

 

「暇の搾取」という術語に資本主義・高度消費社会のグロテスクさを見た。働き続け、稼ぎ続け、その先に待っているのは一体何なのか —— もしかしたら、そこには屍と墓場しかないのかもしれない。否、きっとそうに違いない。ならば、高度消費社会に踊らされず、自分にとっての贅沢とは何かというのを明確にし、その上で自分なりに贅沢を満喫するような人生にしていきたい。その中で余暇を大切にできるような人生にしていきたい。そんなことを考えながら、この大作を読み切ったわけである。幸いにして自分は「暇こそ頑張りに対する最大のご褒美」と思っているような人間なので、あとは自分の周りがそのことを理解してリスペクトしてくれることを願うだけなのだが、(驚くほど理解されないんだ、これが(苦笑))。なにはともあれ、この本はなかなかよく売れているようだ。現代人の心の奥に刺さるものがあるのだろう。この『暇と退屈の倫理学』を通じて少しでも多くの人が「暇と退屈」について考えるようになったら、我々の暮らす社会も、金銭的なものとは別の意味で豊かになっていくのかもしれないと思った次第である。