つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

吾輩のサムネイル革命

YouTuberをはじめてから約4か月になる。マニアックな内容ばかりを扱っているせいでなかなか視聴数は伸びないものの、チャンネル登録者数は240名くらい。扱っている内容の専門性の高さを考えれば、そこそこ善戦している方かもしれない。ちょうど時期を同じくして、感染症内科医のYouTuberが激増しているという問題はあるが、彼らとは幸いにして内容もキャラも被っていないので、その点も問題なしだろう。もっとも、週3回更新はなかなかハードだし、意外と視聴者も追いつけていないらしいので、こちらは週2回更新でも十分な気がしているけれど。

 

なんにせよ、チャンネル登録者数は今後ゆっくり伸びていけばいい。ただ、同時に企業案件を引き受ける機会が増えたのは非常に嬉しい。いくつかの企業からオリジナル・コンテンツの作成をご依頼していただいているのである。チャンネル登録者数が少なくても、内容を吟味して判断していただけたのは本当に有難いことである。無名の時から大切にしてくれたパートナーを厚くもてなすのが吾輩の流儀。取引先を裏切らないような質の高いコンテンツをお届けしたい。

 

ところで企業にコンテンツを売るということは、その企業が儲かるよう工夫を凝らすのも当然の義務である。これまでもコンテンツ作成を自分なりに工夫してやってきたが、もうワンランクだけレベルアップさせるよう努めなければならない。そこで、改めて勉強することにした。サムネイルのデザインについて。最近は土浦駅前の図書館によく通っているが、『「伝わる」デザインの考え方』(ナツメ社)と『懐かしくて新しいレトロスタイルデザイン』(PIE社)を借りてきた。自分のコンテンツの視聴者は20歳から60歳までで二峰性の分布になっているようで、両方の心を掴めるデザインを考えた時に「古き良き昭和」「古き良きアメリカ」みたいなものが良いのかなと考えたわけだ。高島屋にちょっと名残が残っているような、あんな感じ。

 

お勉強タイム!(美術)

 

両書籍を熟読して、いくつかデザインを白紙に描き殴りながら、どんなデザインなら心を掴めるものか、真剣に検討してみた。そして、数時間かけてサムネイルを作成してみた。わざと縁取りに染みを入れてみたり、文字色が単純な色使いにならないようずらしてみたり、インベーダーゲームを彷彿とさせるレトロな図版を使ってみたり。試行錯誤の結果、出来上がったのが「免疫不全のレッスン」のサムネイルである。そして、このコンテンツは某企業のもとで先行公開を予定している(時間が経てばYouTubeにもアップされる予定ではあるが)。ちょっと地味かもしれないが、これくらいが恐らくは丁度よいのだ。あとは、その企業のHPにコンテンツが並んでいるのを見ながら微調整していこうかしら。

 

我ながらなかなか昭和な感じにできたかしら

手水場の紅葉を眺めて臥せる床

茨城県内で勤務するようになってからは比較的健康に過ごしているのだが、久しぶりに我が家の手水場に紅葉を散らすことになってしまい、多忙による五臓六腑の負担を実感することになった。少しばかり休養する必要があると思い、最近は仕事がない時は努めて臥床するようにしている。暴飲暴食はこれまでも避けていたのだが、このところはさらに意識的に「腹八分目!」と自分に言い聞かせるようにしていて、どんなに食欲が勝っていても自制するようになった。こうして自己流の「養生訓」を実践する中で、少しずつ体力を取り戻しつつはあるものの、やはり自分は体力に恵まれないなぁと再認識するわけである。楽しみにしていた後輩との食事会もさすがにキャンセルした。

 

そんなわけで、いま病院で普通に仕事をしてはいるのだが、帰宅後は横になっている時間がだいぶ増えているのが現状だ。さもないと身がもたない。それで、横になっていると暇で退屈でイライラしてくる……かと予想していたのだが、案外そうでもないところがまた面白い。いままで常にアイデアや仕事のことで頭がいっぱいになっていて、それらから解放されている状態が余程珍しかったのだろう。布団にくるまっていると、頭の中がかつてないほど清々しくなっていくのを感じるのだ。そして忙しい日々を振り返っては、自分はつまらぬ資本主義社会に踊らされている一個の木偶人形に過ぎないのかもしれないと唐突に思い、フッと自嘲の笑みを浮かべるのである —— 人生ほど滑稽で馬鹿げたお遊びも他にあるまい、あと何年踊ってやろうかしら。そんなしょうもないことを漠然と考えながらも、病で臥せっている状態に奇妙な幸福を感じていたのは間違いない。病に臥せることで、この過剰に無機質で機械的現代社会にささやかな反撃ができてしまうことに気がついてしまうのである。

 

日常を考え直すには良い哲学書(この手の本の中ではかなり読みやすい)

 

最近読んで感銘を受けた本に、国分功一郎『暇と退屈の倫理学』がある。この本は、記憶違いでなければ自分が大学4年生か5年生の頃に単行本が書店に並んでいて、当時読もうか読まないかだいぶ迷っていたのをよく覚えている。それで、当時は結局読まなかった。しかし、読まなくて正解だったのかもしれない。というのも、読書というのはタイミングを誤ると途方もなく大きな機会損失につながることがある。例えば、若い時に夏目漱石を読んで「夏目漱石というのはこの程度のものか」という固定観念ができてしまうと、いざ読める年齢になった時に夏目漱石の小説を手に取らなくなってしまう可能性があるのだ。おそらく、大学生時代の自分が『暇と退屈の倫理学』を手に取ったところで、その意味するところをちゃんと理解することなく読み流してしまっていたのではないかという気がする。そういう意味で『暇と退屈の倫理学』の文庫化が令和の世になってからだったのは、自分にとって僥倖であった。

 

『暇と退屈の倫理学』では「退屈」の概念を3つに分類するなど、様々な論考を展開しているのだが、今回その話題は脇に置いておこう。むしろ、この論考の出発点にある問題意識がとても刺激的だったので紹介したい。むかしの資本主義社会は「労働力の搾取」といわれていたが(今もその要素は残っている)、いまの資本主義社会は「暇の搾取」になっているというのが論考の出発点になっている。というのも、人間は豊かさや幸せを求めて努力してきたわけだが、こういった目標が達成されると人間というのは打ち込むべき仕事がなくなってしまうので却って不幸になってしまうものだ。この人間の不幸を、高度消費社会としての資本主義は決して見逃さない。高度消費社会の担い手たる生産者は、広告などを通じて無理矢理にでも需要を "発明" する。例えば、スマートフォン。なくても実は死ぬことはないのだが、しかし、気がつけば社会生活の必需品もどきになっていて、一度手にした者は手放せなくなっている。こうして、消費者の欲望は留まるところを知らず生産者によって "発明" され続け、気がつけば空虚な時間つぶしによって消費者の人生が "消費" され、結果的に「暇の搾取」が生じているというわけだ。

 

「暇の搾取」という術語に資本主義・高度消費社会のグロテスクさを見た。働き続け、稼ぎ続け、その先に待っているのは一体何なのか —— もしかしたら、そこには屍と墓場しかないのかもしれない。否、きっとそうに違いない。ならば、高度消費社会に踊らされず、自分にとっての贅沢とは何かというのを明確にし、その上で自分なりに贅沢を満喫するような人生にしていきたい。その中で余暇を大切にできるような人生にしていきたい。そんなことを考えながら、この大作を読み切ったわけである。幸いにして自分は「暇こそ頑張りに対する最大のご褒美」と思っているような人間なので、あとは自分の周りがそのことを理解してリスペクトしてくれることを願うだけなのだが、(驚くほど理解されないんだ、これが(苦笑))。なにはともあれ、この本はなかなかよく売れているようだ。現代人の心の奥に刺さるものがあるのだろう。この『暇と退屈の倫理学』を通じて少しでも多くの人が「暇と退屈」について考えるようになったら、我々の暮らす社会も、金銭的なものとは別の意味で豊かになっていくのかもしれないと思った次第である。

意志と表象としての世界について

読書の中でも、哲学書は敬遠されがちである。言葉遣いが難しいし、分厚いし、読んでいると堂々巡りしているような気持ちになる。なかなか実用的な教訓を得られないということで、結局手が伸びてしまうのはハウツー本のように即効性のある書籍だったり、小説のように心をくすぐってくる書籍だったりするわけだ。

 

つくば Roji(美味しかったけど、だいぶ贅沢してしまった……汗)

 

なぜ哲学書の言葉遣いが難しいのかといえば、議論を厳密にするために言葉も厳密に定義しているからだ。言葉遣いを下手に平易にしてしまうと —— 特に、変な言い換え表現を多用してしまうと —— 後世に誤読されるリスクがどうしても生じてしまう。なぜ哲学書の多くが分厚いのかといえば、ひとつには哲学では議論を定義からひとつひとつ積み上げなければならないからで、もうひとつには反論を事前に想定してあらかじめそれを封じるような議論を盛り込んでいるからである。さらに、堂々巡りしているように見えるのは、哲学が難解であることを著者自身が理解していて、同じことを違う角度から何度でも伝えようとしているからというケースが多い。

 

いずれにしても、哲学書を読んでいて、言葉遣いが難しかったり、分厚かったり、堂々巡りしているような感じがしたりするのは哲学の性質上必然的なものではあるのだが、現代の読者としてはたまったものではない。読むたびに頭脳を雑巾のように絞られているような感覚に襲われ、その頭痛に思考が悲鳴する。それでもなぜ哲学書を読むのかといえば、それは定期的に頭にハードな刺激を与えるためとしか言いようがない。ビーフジャーキーとか、スルメとかを噛みながら、嚙み切れないフラストレーションを楽しむ。そんな感覚だろうか。そして、哲学書を読んだ後に論文を読み書きすると、これが不思議と捗ってしまう。哲学書の読解に難易度で勝る思考というのは現世で他になく、哲学書でウォーミングアップしておくと大抵の知的作業は(実際に容易いかはさておき)容易く感じられるようになるものなのだ(ま、要は脳ミソを廃用させないためのトレーニングということじゃ)。

 

最近読んだ哲学書に、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』という書籍がある。この書籍も哲学書の例に漏れず、なかなか難しい。ただし、カントやハイデガーは言うに及ばず、ヘーゲルニーチェの著作よりも読みやすい印象ではあった。プラトン哲学の伝統的な系譜を忠実に引き継いでいるからだろうか。プラトンイデア論と対応付けながら読解すると、難しいなりに比較的読解しやすい気がするのである。

 

いわく、タイトルのごとく「世界は意志と表象から成り立っている」との由。「表象」とはなにか。「表象」とは「主観」と「客観」である。「主観」とは「認識する存在」であり、「客観」とは「認識される存在」である。しかし、「主観」と「客観」は区別されるものではあるが、別々のものではない(同じ現象に対する違う表現といえば分かりやすいだろうか)。例えば、目の前に机がある。「客観」で表現すると、机が特定の時間・特定の座標に設置されていることになる。しかし、これは「主観」でも表現される —— そこに机があると認識しているのは自分自身だ。すなわち、机は自分自身の内にある。言い換えれば、認識しなければ机も存在しないということになる。ショーペンハウアー哲学に特異なところがあるとすれば、「主観」と「客観」を相反するものと見なさずに両方とも認めているところのように思う。そして、「主観」と「客観」の両方をひっくるめた世界の有様をショーペンハウアーは「表象」と表現しているわけだ(間違っているかもしれないけど、吾輩はそう理解したよ?)。

 

しかし、この「表象」だけでは世界の成り立ちを説明することができない。例えば、モノが落下するのは重力のせいではあるが、その重力は冷静に考えれば説明不可能だ。もちろん、数式で説明できると言われればそれまでなのだが、その数式自体も所詮は人間が作り出したものに過ぎないから、(現状矛盾をきたしていないだけで)完全に正しいという保証はない。こういった根本のところで説明しきれない意味不明なもの(原理)が世界には溢れている。これをショーペンハウアーは「意志」と表現しているのである(この「意志」、カント哲学でいうところの「物自体」に該当するようなのだが、カント哲学自体が難解なので、これは却ってよくない喩え方だ)。ショーペンハウアーのいう「意志」を現代人に一番しっくりくるように説明するならば、「STAR WARS」に出てくる「フォースの導き」のようなものと考えておけばよかろう(そう頭の中で置き換えながら読んだら意外とすんなり読み進められたのだけど、ちょっと安直すぎるかな?)。

 

さて、「意志」と「表象」は、先に少し触れたように、プラトンイデア論と対応しているように思われる。すなわち、「意志」はイデア界で、「表象」は現実世界……このあたりは、高校倫理を履修していればピンと来るところかもしれない(現実世界はイデア界の投影に過ぎないというのがプラトンの主張であり、以降の西洋哲学は様々な形でこの哲学の影響を濃厚に受け継いでいる)。プラトン哲学やカント哲学をしっかりと理解していれば、もしかしたらショーペンハウアー哲学ももう少し深いレベルで理解できるのかもしれないと思うところがある。

 

ところで、ショーペンハウアーのいう「意志」はなかなか厄介な問題を含んでいる。「人間が生きて存在していること」もここでいう「意志」に含まれているのだ。人生には苦しいことがたくさんあって、最終的には死んでしまうことだって人間はよく知っているのだが、それでも人間は生きようとする。動物を殺して食べもするし、競争で他人を出し抜きもするしで、そこにはある種の醜さがある。しかし、「なぜ人間は生きているのか?」—— これは答えようのない根本的な問い(原理)である。そしてショーペンハウアーによると、人間が生きていることに根拠を見出すことはできないとのこと。根拠を見いだせないにも関わらず、人間は生きるために努力しつづけ、苦しみもがき続けるのである。まさに「一切皆苦」であり、ショーペンハウアー哲学が「厭世哲学」や「ペシミズム」といった言葉で形容されるゆえんもここにあるわけだ。

 

なにはともあれ、ショーペンハウアーは「意志」という名の人間の存在そのものをネガティブに捉えたということだ。なお、『意志と表象としての世界』に少なからず影響を受けた哲学者にニーチェがいるのだが、そのニーチェショーペンハウアーのいう「意志」を自身の哲学の中に引き継ぎつつも、「力への意志」という概念を新たに生み出して、ポジティブに捉えたことで有名だ。

ショーペンハウアーを読んで、はじめてニーチェのいう「力への意志」とか「超人」とか、あとは「神は死んだ」という言葉とかが少しだけ分かったような気がする。もっとも、これも吾輩の勘違いなんだろうなーなんて思っている。

 

……とまぁ、ここまで書いていると頭が痛くなってくる。そもそもカント哲学がよく分からないのにショーペンハウアー哲学を自分なりにまとめようというのが無謀な行為だった。しかし、このように概念的でよく分からんものと格闘していると、脳ミソがこってりと絞られて、創造的な作業も捗るというもの。さて、頭の体操が終わって心地よい頭痛が現れはじめたところで、論文の続きを書くことに致そうか。

二十万といえども

最近、良い話があった。大学病院の勤務医は安い給与を補填するために、往々にして他の病院に外勤、つまりはアルバイトに行っていることが多いのだが、その関連で高額の日勤案件を紹介していただいたのだった。やはり肩書きが「専攻医」なのか「臨床助教」なのかでは雇用面での待遇が大きく異なっている気がしてならない。その対価として、やれることが増えて、やるべきことも増えて、そして責任も大きくなったことを実感するわけだが、与えられた待遇に対して当然の責務という感覚も同時にあるのだ。

 

日本文化の難しめの本に手が伸びることも

 

まぁ、とにもかくにも、良い外勤案件をご紹介いただいた。ありがたいことだ。ところで、自分には既に外勤先がある。待遇については、新しく紹介していただいたところのものほどではないにしても、なかなかよいと自分では思っている。いまでも身の丈に合っているか、あるいはそれを少し上回るくらいの待遇。交通の便に関しては、いまの外勤先と新しくご紹介いただいた外勤先とで良い勝負。そういうわけで、新しい外勤案件のメリットは、いまの外勤先よりも給与待遇が大幅によくなるという一点になりそうだ。

 

それでこの新しい外勤案件、お話をいただいたその場でお断りさせていただいたのであった。確かに新しい外勤案件は給与面でだいぶ恵まれていると思ったのだが、あまりにも恵まれすぎていて自分の身の丈に合っていないような気がした。はっきり言って、自分の能力にまだそこまでの市場価値はない。それにいまの外勤先からだって、相場よりも良い給与をいただいている。常勤でないにも関わらず、常勤医の先生方から同じ病院の仲間として受け入れていただいてもいる。その厚意を裏切るわけにもいくまい。いまの外勤先にはこのように大きな御恩があるわけで、その義理をこれからも果たし続けていきたいと思っている。ゆえに、お断りさせていただいた次第である。

 

この一件で少しだけ自分に自信がついた。日本の戦国時代の逸話で、豊臣秀吉が色々な他家の武将をスカウトした話があるのだが(例えば直江兼続とか石川数正とか……)、中にはスパッと断った武将も散見されたようだ。そういった昔の逸話に思いを巡らせながらも、自分のようなお金にがめつい人間が脊髄反射的に「お金より義理」という決断ができたのは良かったと思うし、何よりホッとした。医療現場に揉まれながらも、辛うじて心を失っていないことを確かめることができたのだから。逆に今後似たような状況が生じたとして、そこで少しでも心が動いてしまうようなら、人間としての自分はもう終わりなのかなとも感じるのである(身の丈に合った昇給で義理を欠かずに済む状況であれば、喜んで受けるのだけれど)。

医療の葛藤

医者になってからというもの、日々の仕事が鬱との戦いである。毎朝起きては、自分自身に「今日はやれるか? —— あぁ……今日はまだ大丈夫だ」と自問自答しながら敷布団を折り畳むところから1日がスタートする。幸いにして、初期研修中のごく半年と後期研修中のごく半年という僅かな期間を除けば、憂鬱気分に屈せずに仕事を続けることができてはいるが、それでも鬱の再来を全力で押しとどめるようにしながら日々を過ごしている。

 

医者は、人の命を助ける職業である。言わずもがな人の命は尊いものだ。日本の長寿社会は昔からの医療従事者の努力によって成り立っていると言ってもよいだろう。ただそのことが同時に、日本の超高齢化社会を引き起こしてしまっていることも否定しがたく、社会保障費の増大が日本においては国家最大といってよいほどの問題となっている。とりわけ、2040年以降の日本の未来は悲惨である(未来予測の多くは外れるが、人口予測だけは高い精度で当たる)。そんな2040年、自分は(生きていれば)48歳。(不貞腐れて俗世を捨てていなければ)まさにミドルマネージャーを担っている時期なのである。

 

温故知新。我々の感性と昔の人の感性はさほど変わらない

 

医療行為を行うことは、"いまの" 日本人の命を助けることにつながる(もちろん、日本人以外も含む)。しかしこれは同時に、増大する社会保障費などを介して、日本の命を削ることにもつながっている(かつては違ったのだろうが、いまは……)。さらには、医療を通じて “未来の” 日本人の命を削っている可能性があるとすら言える。"Do no harm to patients" の心構えでいながら、もし自分の知らない場所で人に危害を与えているのだとしたら、これほど恐ろしいことはないだろう。そして、医療現場に立つということは、この葛藤と戦うということでもあるのだ。いま40代、50代以上の医療従事者にとっては、このことはさほど大きな問題でもあるまい。しかし、これから何十年にもわたって日本の未来を見続けていなかければならない立場の自分にとっては極めて重大な問題である。憂鬱にならない方が無理というものだろう。それとも考え過ぎだろうか。

 

そんな中で自分に与えられた課題は、日本人と日本を同時に生かす医療のかたちを提示することだと思っている(片方が潰れたらもう一方も潰れることくらい、分からないとは言わせない)。どうすれば日本の余命を削ることなく日本人を生かすことができるか。感染症診療に起源をもつstewardship活動にひとすじの光明を見出しつつも、それがなかなか世間に認められない苦しみがある。しかし、これを普及させないことには日本も自分も終わるのではないかという懸念がある。目を覚ませ同業者よ、医療資源が国民の血税で賄われているという知識をいい加減常識に変える必要がある。わざわざこんなことを言わないといけないくらいには、医療現場には無駄が多い。同時に、他の方法だって考えねばならない。暗澹たる気持ちに潰されそうになりながらも、患者さんと向き合いながら思考し続けている。

 

全体最適部分最適の葛藤。徳川嫌いの自分でも、いちど医療現場に立ってみれば、徳川慶喜の気持ちが嫌というほどよく分かるのである。せめてひとりの医療従事者として、明らかな傾国の医療を避けるよう注意しなければなるまい。ひとりで頑張っても焼け石に水ではあるのだろうけれど。

「いき」という、和のエッセンス

原色が三つであることを証明するのは難しい。色の専門家であればなにかしらの知見があるのかもしれないが、少なくとも非専門家からしてみたらまったく想像もつかない。このように数多くのバリエーションの中から数少ない本質を拾い上げるのは極めて困難な作業である。たとえ直感的に本質的な部分を見抜けたとしても、それが本質であることを論理的に他人に説明できないという状況も多々あるだろう。

 

そういった意味で、味覚のエッセンスに「うま味」があることを見出し、その正体がグルタミン酸であることまで突き止めた池田菊苗先生の仕事は偉大なものだったと言える。それまでは「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」だけだった料理の世界に、日本から新風が吹き込まれたのである。日本の料理がなぜ世界でも抜きんでて美味とされるかというと、「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」で勝負する世界に対して「うま味」という新ルールを導入して、この日本ルールのもとで改良を重ねているからだと勝手に想像している。

 

日本が世界に勝つパターンはだいたい決まっている。日本特有のガラパゴス化現象が世界に開かれてみるやいなや、「意外と良いのではないか」と世界中から評価される —— そんなパターンだ。世界のルールそのままの状態で日本が戦っても大抵の場合は勝てないのだが、世界から輸入したあれやこれやを換骨奪胎して、そこに “グルタミン酸” や “職人技” のようなお家芸的な付加価値をつけた上で独自路線を歩んでみる。そうすると、なぜか「勝てている」。日本人受けする形に最適化していたら、気がつけば世界にも受けていたというパターンだ。このあたり日本はなんとも不思議な国だなと思っていて、この手の独特の強みは頭の片隅に置いておいた方が良いように感じている。

 

当直中は、ホットライン片手に貪るように読書している

 

ところで日本文化の独特性を語るにあたっても、何が日本文化の “グルタミン酸” になっているのかを知る必要があるだろう。九鬼周造の『「いき」の構造』は、日本文化(主に江戸文化)の本質的な構成要素に「いき」が含まれていることを証明しようという試みである。「いき」に該当する様々な生活様式や芸術作品を並べてみて、その共通点を言語化することで、「いき」を定義しようというのである。例えば、「いき」は藍色・黒色・灰色が多いとか、「いき」は直線であることが多いとか、曲線が混じると「いき」ではないとか、あれやこれや考察するわけである。

 

令和の世を生きている我々が「いき」を知るには、江戸文化の残り香に思いを馳せるのがよかろう。少し安直に過ぎるかもしれないが、浅草を想像してみるがよい。あるいは、小江戸と呼ばれる川越や飛騨高山、百歩譲って佐原や西新井を想像するのも悪くないだろう。これらの街は、決して「上品」ではない(言うまでもなく「下品」でもない)。かといって、銀閣のような「わび」があるかといえばそうでもない。「派手」とか「地味」という価値観で語るものでもない。しかし、間違いなく「いき」ではあるだろう。九鬼周造がやっているのは、そんな要領で様々な物事に対して「いき」を他の価値観と区別する作業なのである。

 

最終的に、九鬼周造が辿り着く結論は以下の通りである —— 垢ぬけていて(諦めの境地)、ハリのある(江戸武士の意地)、色っぽさ(媚態)。ここに至るまでの論考は、実に難解にして、迫力のあるものである(論考そのものがコンパクトで張りつめていて、「いき」なものになっている)。もちろん、帰納的な方法論を採っているため、「いき」の定義に関して異論があっても不思議ではないのだが、膨大な論考の中に哲学者の意地と緊張感を見出すことができるわけである。こうして、江戸文化が江戸文化たるゆえんも、部分的に言語化されたところに九鬼周造の功績があるように思う。

 

ところで、この『「いき」の構造』を自分は岡倉天心の『茶の本』を読んだ直後に読んだ。まったく違う書物なのに、どこか似た雰囲気を感じ取ったのである。それでよくよく調べてみると、実は九鬼周造の母親が岡倉天心と恋仲だったことがあり、九鬼周造自身も自分に岡倉天心の血が流れているのではと期待していたフシがあったようである。そういった意識がかような文体となって表れていたのかもしれない。『茶の本』にしても『「いき」の構造』にしても、日本文化の本質を伝える作品として、未来永劫読まれ続けることを願ってやまない。

大きな志。そして小さな日常。—— 司馬遼太郎

文豪の書いた本を読もうと思い立ったとき、何から読み始めたらよいものか迷ってしまうことがよくあるだろう。自分も大学生時代に三島由紀夫の小説をよく読んでいたのだが、読もうと思い立ったときに何から読めばよいものか、最初は途方に暮れたものだ。

 

身近に読書慣れした親戚や友人がいない場合に導き手になってくれるのが、新潮文庫の「文豪ナビ」シリーズである。もちろん、「文豪ナビ」の順番に従って小説を選んでいくのも必須ではないのだが、挫折する可能性の低い順番を提案してくれているところが良心的だ。例えば、『仮面の告白』はいかにも三島由紀夫らしい独特の内容となっているのだが、「文豪ナビ」では比較的 “三島慣れ” してから読むことを推奨している。「文豪ナビ」によると、最初に読むべき三島小説は『潮騒』である。なるほど、確かに三島文学の中では癖が少なく、万人が読める小説といえるだろう。

 

見開きに歴代作品の表紙がまとめられていて美しい

 

そんな便利な「文豪ナビ」だが、実は自分はあまり読んでいない。なぜかというと、読書は自由であるべきだという信念があるからだ。小説を読む順番くらい、自分で決めたい。そういうわけで、「文豪ナビ」にナビゲーションしてもらうのは避けるようにしているわけだ。ところが、ふと図書館を歩いていると、『文豪ナビ 司馬遼太郎』が視界に入ってしまった。本来であれば読まないであろう「文豪ナビ」だが、表紙のキャッチフレーズをみて迂闊にも手に取ってしまったわけだ。

 

—— 大きな志。そして小さな日常。

 

なんと魅力的な言葉だろう。司馬遼太郎歴史小説はかなり多く読んできたし、自分の人生にその登場人物の振る舞いを投影しながら生きている身としては、身震いするようなフレーズだ。英雄というのは、毎日を変わり映えなく過ごしていても、その一挙一動に大きな理想が込められているもの。些細なタスクの数々を、無意識下で志という大きなベクトルに乗せるようにして日々を過ごしているものだ。時代を変えるきっかけとなる英雄というのは、そんなふうに生きている。実際に、『国盗り物語(四)』の作中でも明智光秀が語っている。「人間としての値うちは、志をもっているかいないかにかかっている」と。

 

かくして、この『文豪ナビ 司馬遼太郎』をペロリと平らげるように読んでしまった。最近は政治や経済の本ばかりで、歴史小説から遠ざかっていたものだから、久しぶりに司馬遼太郎の小説を読んで、心に熱いものを注ぎ込みたくなってきた次第である。自分が司馬遼太郎に一番没頭していたのは中学生の頃だったが、当時読んだ『功名が辻』とか『関ケ原』とかも、今読み直したらきっと違う印象を受けるのではないだろうか —— そんな昂揚感も少しばかり添えられているのである。