つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

マインドフルネス

少し前から「マインドフルネス」という言葉が流行している。その意味は、意識的に「いまの一瞬」の感覚に集中し、自分を取り巻く世界への気づきを得ることだそうだ。スピーディーな変化に振り回されている現代社会では、自分の感覚に耳をすますことが蔑ろにされがちであり、なるほど、この言葉が流行するだけの理由はありそうだ。

 

ただし、吾輩はこの言葉が嫌いである。というのも、「マインドフルネス」の概念はいまに始まったものでなく、たとえば日本であれば西田幾多郎が「純粋経験」の概念を遥か昔に提唱している。吾輩は哲学徒でないから「マインドフルネス」と「純粋経験」とが同じものだと言い切る自信まではない……が、しかしまぁ、似ている。事実そのものが直接心に至るのを重視しているという点では同じようなものに見えてしまうのだ。もともと「純粋経験」という京都学派の素敵な概念があるところに、わざわざ「マインドフルネス」という舶来品がやってきた。日本語が見向きもされない中で新語がビジネスになり、ベストセラーになり、お金儲けに使われているのを想像するのが嫌なのである。

 

それはそうと、「マインドフルネス」というのをだいぶ意訳すると、「現代社会に疲れたオトナたちが、全身全霊で感覚を動員して身近な感動を取り戻す」ということになりそうだ。意訳しすぎだろうか? ある意味では、子供心に帰るということでもある。ただ子供心というのが一体どういうものなのかと言われると、これは意外に難しい。「子供っぽい大人」はいても、「子供心の大人」というのはなかなかいないものだ。

 

なぜ唐突に子供心の話なんか始めたのかというと、実家の蔵書を整理している時に『銀の匙』(岩波文庫)を見かけたからである。中学1年生か2年生の時の読書感想文の課題図書だったと思うが、当時この手の小説には全く興味がなく、実際ちゃんと読めていたかというと甚だ疑問である。その後、灘校の橋本先生の講義がマスメディアで話題になり、いったん『銀の匙』ブームが訪れたのだが、その時も読み返そうという気が起こらなかった。やはり興味がなかったのだ。それで、最近になって押し入れから出てきたものだから、売り払う前に教養として読み返そうと思ったわけである。

 

中学生に果たしてこの本の良さが理解できるかと訊かれると疑問

 

改めて読み返すと、『銀の匙』は相当の名作だと分かる。子供心を持った大人はいないし、大人の文章力を持った子供もなかなかいない。しかし、『銀の匙』の著者である中勘助(なか かんすけ)は例外である。子供心を大人の文章力で鮮やかに描写している。例えば、子供同士の縄張り争い。その時の嫉妬心。担任の先生から理不尽な理由で怒られた時に言い訳したくなる心境。俯いて黙って、頭の中が真っ暗グルグルしているうちに泣きたくなってくるあの感じ。伯母さんに連れて行ってもらった店に並ぶお菓子と高揚感。かように透徹した筆致で少年時代を描ける人物がいたのか! そんな驚きがあるのである。

 

というのも、こういった光景を大人が描くと、どうも作為的なニオイがしてしまうものだ。『失われた時を求めて』ですらそう(もちろん、邦訳でかいつまんで読んだだけだけれど)。慣れた読み手としては「計算しているな」と分かってしまうのである。もちろん、その作為的なニオイの違和感を楽しむような読書もあるのだが——俗世間に疲れてくるとたまに生臭くない読書もしたくなる。そこで『銀の匙』を読んで、目を瞑って、息を大きく吸って春を感じてみる。温かい芽吹きの匂いを感じながら、子供だった頃に思いを馳せてみる。四季のめぐりを知る。かくして、血生臭い救急外来の玄関口でも、つかの間の古くて新しい純粋経験ができるのである。