つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

進歩しているのに不幸せかもしれないぼくら

経済学を全く学ぶことがないまま医師になり、何度も経済学を勉強しては挫折を繰り返し、最終的に医師4年目になってから1年間しっかりと(つくば市立中央図書館にほぼ毎日通いながら)経済学を勉強することで、ようやくほんの少しこの世の成り立ちが分かってきたような気がする。医師にとって経済学は馴染みのない学問分野であるが、勉強した印象としては、しっかりと勉強する価値のあるものであると言える。

 

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資本主義はどこで誤ったのか、そのヒントを示唆する一冊

 

経済学が教えてくれるのは、この世の奇妙なカラクリである。「努力は報われる」という言葉が信じられている中で、なぜ実際には努力が報われない仕組みになっているのか。どうして技術が進歩しているのに、生活が余計きつくなって幸せを奪われている気がするのか。経済学がこれらの問題を解決する方法を提供してくれるわけではないのだが、なぜそんな酷い有様になっているのかのヒントは教えてくれるだろう。

 

この世のカラクリを知ることは、強者から少しでも搾取されないようにポジショニングを工夫することの理論的な根拠とか動機にはなるだろう。そういう意味で、経済学を学ぶ必要がある。ポジショニングを工夫するというのは、レッドオーシャンを避けるという意味も含んでいるわけだから、経営学も学ぶ意義はあると思うが、経済学と経営学は(ある意味)同じ現象を違う視点で見た学問とも言えてしまうので、素人目にはどちらから入門しても本質的な差はないのではという気がする(誤解を恐れずに言えば、競争を生かそうとするのが経済学で、競争を回避しようとするのが経営学)。

 

それにしても、なぜぼくらは幸せになれないのだろうか。なぜ満ち足りた気持ちになれないのだろうか。答えは割と単純、「幸せが相対的な概念だから」。生活水準が上がると、もっと生活水準の高い社交が視界に入ってくるわけで、「隣の芝生は青い」とばかりに満ち足りない気持ちを生じてしまうものなのである。地位が上がっても幸せになれない理由は、こういった背景に基づいている。

 

逆に、「絶対的な幸せ」という概念を持っている場合は、相対的な幸せを追い求める人々よりかは容易に幸せになれるのではないかと思う。具体的には、「涼しい書斎を持っていて、蔵書があって、四季を愛でながら晴耕雨読の生活を送る」みたいな自分なりの確固たる幸せのイメージを持っていたら、幾分も心穏やかに暮らすことができるだろう。こういった「絶対的な幸せ」という概念は、一体どこに消え去ってしまったのだろうか。

 

ここに、幸せを測定するパラメーターが幾つかある。例えば、衣食住がどの程度満ち足りているか。食べ物を多く持っている人と、ほどほどに持っている人とでどちらが幸せかと言われると、多分そんなには差がない。なぜかといえば、どちらもお腹いっぱいになった段階で幸せ度が頭打ちになるから。必要最低限度の服や家があれば、同じように、そこからグレードアップしたところで幸せ度はさほど変わらないだろう。人間の活動には限界があるので、着きれない大量のドレスを持っていたり、使わない部屋の多い豪邸を持っていたりしたところで、しょうがないのである。畢竟、衣食住などをパラメーターにしている限りは、それなりに幸せになることができる。

 

ところが、この幸せ度の頭打ちを突き破るものがこの世には存在する。それが貨幣である。衣食住などについては多く持っていてもしょうがないので「足るを知る」という観念(注釈)も比較的容易に受け入れられるが、貨幣に関しては多ければ多いほどよい。隣の人と比べられるのだからね。この貨幣(+ それにより規定されるモノの値段)というものが、幸せを相対的な概念に変えてしまったのではないかと感じる。そうなってしまうと、「足るを知る」という観念も受容困難なものになっていく。

 

「足るを知る」という観念を失った結果として生じたのが、余暇の消失である。技術が発展すると仕事を楽にこなせるようになり、その分だけ時間を浮かせることができるが、その浮いた時間をさらなる貨幣の獲得のために仕事するという考え方が当たり前になってしまっている。なにしろ、貨幣は多ければ多いほどよい(気がする)のだから。素人考えではあるが、資本主義の成長に歯止めがかからなくなっている理由のひとつもこのあたりにあるのではと思う。

 

さて、ぼくらの仕事はどうあるべきだろう。頭を使って無駄な戦いをはぶくことで、「医者やコメディカルが楽した結果、患者さんがもっと楽になる」というのが理想的な医療だとItoは考えていて、病院総合内科でもこのコンセプトを実験的に取り入れているところなのだが、浮いた労力は間違っても「もっと多くの患者さんを受け入れて……」とか「ハイボリュームセンターに……」とか、あとは「教育病院としてのブランドを」とか、そういった方向に使ってはいけないなと考えている。そんなことをしたら現場がどんどん苦しくなって、当初の目標である全員の幸せが遠ざかっていくことなど、目に見えている。それに無秩序な事業拡大をした企業がこれまでどうなってきたかの歴史を医療現場はもっと知っておくべきだ。

 

むしろ、浮いた労力は余暇として使うべきではと思うのだ。怠惰ではなく、余暇(leisure)。メンバーが余暇を自己実現へと上手く使うことで、医療現場に多様性が生まれてくる。様々な考え方があれば、ガラパゴス化の酷い日本の医療現場も、もう少しは柔軟になれるのではないかと思う。新しいことにチャレンジするにしても、余暇とそれに伴う精神面の余裕が必要だろうし、こういった余暇が結果的に生産性の向上につながっていくことにも結果的には(パラドキシカルに?)なるかもしれない。

 

余暇の効用は他にもあるだろう。日本の場合は、定年までほぼ100%労働で、それ以降はほぼゼロ労働になるみたいな人生になってしまっていて、正直なところ定年前も定年後も地獄である(これが人生100年時代になると今以上に地獄だ)。しかし、余暇を上手く取り入れれば、長く健康に働くことができるのではないか。理想としては、墓場に入るまでずっと50%とか60%くらいの力で働く、みたいな。(データの裏付けはないが)定年前はもっと余暇があった方が健康だろうし、定年後は少しくらい仕事している方が健康だろう。日本では暫くの間、そういう働き方は不可能だと思うが、せめて自分の関わる現場だけにはそういう考え方を根付かせていきたいな、なんて考えているところである。

 

(注釈)拡大解釈されそうなので補足すると、Itoにとって「足るを知る」というのと「清貧」とは全く別の概念である。生活を切り詰めなくて済む程度にはお金があった方が良いくらいにItoは思っている。Itoが良いと思うのは、あくまで「腹八分目」であって、「痩せ我慢」とか「武士は食わねど高楊枝」の状況ではない。ところで、『清貧の思想』という中野孝次の著作があるが、これは素晴らしい本なので、是非ご一読を。そういう生き方に魅力を感じる人もいると思う。