つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

ナッジとスラッジ

行動経済学という学問分野がある。人間の行動様式にはクセがあり、例えば夏休みの宿題を先延ばしにしてしまったりとか、災害に巻き込まれた時に大丈夫と高をくくって手遅れになるまで自宅に待機してしまったりとか(現在バイアス)、そういったものを扱う学問のようだ。投資であれば、含み益をすぐに回収してしまう/含み損は塩漬けにしてしまうといったところだろうか(プロスペクト理論)。医療現場における行動経済学としては、例えば腹部造影CT前に食止めオーダーをしそびれるとか、高血圧症患者さんへの処方で使い慣れたアムロジピンしか選ばないとか、そういったあたりに医療従事者のクセが見られるように思う。

 

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ハロウィンシーズンということで初代の講演会で余ったお菓子をパクパク

 

人間の行動様式の悪いクセを是正して行動変容を促す仕組みのことを「ナッジ」と呼ぶ。ただし、この「ナッジ」が成立するに、選択の自由を損なわないこと、金銭的インセンティブを利用しないことが条件になっているようだ。例えば、健康増進のためにカフェテリアからジャンクフードを取り除いて野菜たっぷり定食しか提供しないのは、選択の自由を損なっているので「ナッジ」ではない。カフェテリアにジャンクフードも野菜たっぷり定食も並べるけれど、ジャンクフードを目立ちにくい場所に配置するのであれば、それは「ナッジ」と呼んでよい(らしい)。医療現場に還元するとしたら、例えば造影CT前の食止め問題であればSlackのリマインダ機能を使って応答されるまで繰り返し注意を促す、アムロジピンdo処方問題であれば降圧薬の一覧表を有害事象情報とともに外来に掲示しておく……そんなところだろうか。

 

行動経済学の応用は、この「ナッジ」の適用にある。現場で繰り返し生じてしまう問題を、「手順が煩雑ではないか」(Easy)、「方法が魅力的かどうか」(Attractive)、「社会規範にかなっているか」(Social)、「タイミングが悪くはないか」(Timely)といった各要素(EAST)に分解して検討し、実社会で機能するような行動変容の仕組みを作り出すわけだ。……とまぁ、抽象的な議論を書いたところで分かりにくいだけなのだけれどね。面白い学問だと思うので、興味が湧いた人は勉強してみてほしい。

 

ところで、「ナッジ」には対義語がある。「スラッジ」(へどろ)—— ぼくはむしろこっちの言葉に興をそそられた。「ナッジ」は人々の行動変容を促して世の中を良くする仕組みのことだが、「スラッジ」は人々の構想変容を促して個人が私利私欲を貪る仕組みのこと。例えば、商品購入の割引キャンペーンで、商品番号を書類に記載して郵送する必要があるケースは、「割引で客寄せしたいが、実際に割引サービスを使わせないために面倒臭くしてやろう」という意図が垣間見えるので、「ナッジ」ではなく「スラッジ」に分類される。……ここまで読んで察した御方もいると思うが、医療現場は「スラッジ」だらけの場所である。例えば、病院総合内科や救急・集中治療科から他の診療科に該当疾患の患者さんを転科させようとすると、カンファに出頭してプレゼンテーションをしなさいと言われることがある。そのプレゼンテーションの場では、偉い方々から洗礼とも呼べるような嫌がらせを受ける(反論できても気持ちの良いものではない)。そういったプロセスで以って、転科に向けたこちらの意欲をゴッソリと削いでくる。これが「スラッジ」でなくて、一体なんだというんだ!と憤ることもしばしば。

 

地域医療においては病院間・診療科間での患者さんの押し付け合いが日常茶飯事である。適切な診療科に適切な疾患の患者さんが入院できておらず、患者さんのメリットに全くならないような医療がまかり通ってしまっている(患者さんを多く診ても給料が増ないという事情もあるだろう)。そういうわけで、「スラッジ」を撤廃して良き「ナッジ」を制定すること。それが医者も患者もコメディカルも全員が幸せな医療現場には欠かせない要素と考えた次第である。