つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

なぜ哲学書を読むのか

新年早々ではあるが、新型コロナウイルスもオミクロン株への変異を遂げて日本で流行し始めている。蔓延防止措置法が再度出され、緊急事態宣言も今後出されるだろうから、この年末年始が外出などのできる最後のチャンスだったと言っても過言ではないだろう。そうすると、今後はきっとしばらくの間、GW頃までは外出しづらい状況が続くのではと思う。しかしながら、読書家にとってこのことは些末な問題である(もちろん、医療従事者にとっては重大事)。緊急事態宣言で図書館が閉まるとさすがに辟易としてしまうが、読書を継続していれば外出などせずとも、心のキャンバスに美しい景色を思い描き続けることができる。どんなに外界が破壊されつくしても、常に自分自身の内面に逃げ込むことができてしまうわけだ。

 

f:id:TsukubaHospitalist:20220107183830j:plain

左から中学2年生~高校2年生までの読書感想文課題

 

ときに、最近はちょっと引き籠り気味に、哲学書をたくさん読んでいる。哲学書を読みたくなったとかそういう高尚な理由ではない。実家の蔵書を整理しないといけないからと親に言われてしまって、捨てていい本と捨ててはいけない本を区別するために中学生・高校生時代の読書感想文の課題書籍などを片っ端から読み直しているだけなのだが、その中に哲学書が少なからず含まれているわけだ。自分は巣鴨中学校・高等学校出身だが、そこで長期休暇の折に出されていた読書感想文の課題書籍はどれも一級品の作品である。いまどの本を選んで読み直しても、なかなか色褪せない。

 

例えば、池上嘉彦記号論への招待』(岩波新書 黄)。言語というものを取り巻く様々な要素を漏れのないように分類して解釈を加えている。例えば、「犬」という言葉は犬という動物を指しているわけだが、犬は個体ごとに異なっている。異なった固体ではあるが、どの固体をとっても「犬」と呼んでよい。その一方で、「ポチ」という言葉は特定の犬の個体を指しているわけだから、他の個体には適用してはいけない……みたいな感じで、言葉を実用上の特性に則って細かく分類している。それで、この本を読んでいると “その他” という分類コードが現れていないことに気がついてしまうのだが、そういった「全て分類しきってみせる」という凄味を難解な文章の中に感じ取れるわけである(例外という名の妥協を許さないのは、哲学者の真骨頂だと思う。医療従事者だとそうはいかない)。

 

10年前に読んだ時と異なった感想として、この「全て分類しきってみせる」という気迫はどこかで見たことがあるなぁと感じた。例えば、東大入学後の教養学部には「情報」の講義があったが、そこで扱われるプログラミングなんかはそれに近い態度だったのかもしれない。プログラミングされた以外のことをコンピューターは決してできないのだから、人間の方で事前にありとあらゆる条件を想定してプログラミングせねばならぬ……という感じで。そう考えると、最近流行りの人工知能(AI)によるdeep learningが如何に凄いかというのも何となく納得だ。『記号論への招待』に載っているような法則に従って記号をイチから組み立てて価値を生み出すのではなく、既に現実にある価値を集めて緩く法則化した上で新たな価値を生み出す。さらに言うと、インプット指向ではなく、アウトプット指向(単純化し過ぎ?)。要するに、AIはテクノロジー領域における演繹的手法から帰納的手法へのパラダイムシフトだったと捉えることができるわけだ(一度気がついてしまうと当たり前過ぎることなので、わざわざ言うのも気恥ずかしいけれど……)。

 

まぁ、いったん記号論から離れよう。キリがない。こういった哲学書を読んでいると周りからよく聞かれる。「面白い?」——いいえ、少なくとも愉快なものではないです。「役に立つ?」——いいえ、役に立ちません。「じゃあなんで読むの?」——分かりません、気がついたら貪るように読んでいました。そんな感じで、何となく味気ない問答になっていることが多い。実のところ、哲学書を読むのは登山にかなり似ている。登山というと……外は寒いし、服の中は蒸し暑くなるし、胸や足は痛いし、下手すると高山病になってしまって頭痛でのたうち回る羽目になる。それでも登山してしまうのは、特に理由もなく登山したくなってしまうからだ。登山家はここで「そこに山があるから」という言葉を使うものだが、この手の行為に理由を根掘り葉掘り聞くのもなんだか無粋な気がする。

 

それでも強いて哲学書を読む理由を述べるならば、「定期的に頭に負荷をかけたくなるから」とは言えるかもしれない。例えば、最近の小説は軽く読めるものが多く、『図書館戦争』などを書いた有川浩なんかはその類だと思うが、そういった本ばかり読んでいるとふとした瞬間に「歯応えのあるものを読みたい」と感じるものだ。そういった時に、三島由紀夫の『豊饒の海』のように、限りなく美しくて、ちょっとだけ読みづらい(?)表現に触れると、頭に心地よい負荷がかかって心の充実を得られるものである。哲学書も同様、難解さと格闘していると頭の奥が悲鳴を上げてくるのだが、それがかえって気持ち良い。読み進めていると突然内容が分からなくなって、その前の数ページを3回も4回も読み直す羽目になるのだが、それで理解できた時の快感などは他に替え難い。そしてその瞬間に、「難解なものを即席で理解する」という経験値が頭脳に蓄積されるのである。

 

思うに、この世に哲学書よりも難解なものはさほど多くない(嘘だと思うなら『存在と時間』でも読んでごらん)。自分は医者をやっていて、特に集中治療を受けたばかりの問題山積み(マルチモビディティ)の患者さんを主に診療しているのだが、そういった複雑な症例を目の前にしても「この症例はこの1点さえ治せばすべてが解決する」という具合に、瞬時に核心を掴めるような気がするのは(本当かはさておき)、哲学書を通じた無自覚の思考訓練のお陰なのかもしれない。もっとも、そういった現世利益のために哲学書を読むのはハッキリと誤りだ。読書はあくまで娯楽なんだ。普段読書しない人には是非知っておいてもらいたいのだが、読書は単なる知識の伝達に留まらない。分類できないほどに多様な読書の仕方が存在するもので、実際に図書館に足を運んで、無差別に本を選んでたくさん読書してみてほしい。楽しいから読む、役に立つから読む……読書というのは、そんなツマランものでは決してないわけで、読書という行為の奥深さに若いうちに気がつくことができれば、たとえこの先どんなに世界がおかしくなったとしても、内面を充実させて幸せであり続けられるのではないかと思う。