つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

その指標はサロゲート・マーカーじゃない

臨床現場において、患者さんが元気になっているのか、それとも病状が悪化しているのかを判断するのは意外に難しい。例えば、腎盂腎炎という腎臓まわりの感染症があって、これは極めてありふれた病気なのだが、適切に診療できる医師は案外少ないものだ。というのも、この病気は熱が結構長く続く。要は "自然経過" であり、抗菌薬を投与していても38℃とか39℃の熱が続いてしまうものだ。すると、医師の多くが猜疑心に駆られる。「自分が選んだ抗菌薬は正しくないのかもしれない」と。こうして、抗菌薬はより守備範囲の広いものへと変更され、患者さんは解熱して、医師も患者の一安心するわけだ。ところが、後から検出された細菌をみてガッカリする。「こんなに守備範囲の広い抗菌薬を使わなくてもよかったのでは……」と悔しい気持ちになるわけだ。どうだろう、医師なら思い当たる節があるのではなかろうか。

 

結局、この腎盂腎炎のケースでは、熱を初期治療の効果判定の指標として使うのは適切でなかったということになる(もちろん、4日以上発熱が続くなら気にした方がよい)。むしろ、患者さんが食事を食べられるかとか、症状の腰痛が改善傾向にあるかとか、そういった指標も織り交ぜて総合的に判断するべきだったということになるわけだ。このように、臨床現場で患者さんの病状を反映する指標は色々とあるのだが、治療の成否へと確実に直結する単一の "サロゲート・マーカー" を見つけるのは容易ではない。しかし、ひとつの指標を過大評価するあまり、それをサロゲート・マーカーと同一視してしまう誤りも、医師として仕事をしているとよく経験する。

 

この手の問題は臨床医学に留まらないようで、最近読んだ『FACTFULNESS』(日経BP)はなかなか示唆に富んでいた。この本は2019年に翻訳版が日本で発売され、ベストセラーにもなった教養書である。世界の貧困などに関する思い込みを、データを引き合いに出して一刀両断していく主旨の本で、著者はこの本を書き上げて間もなくこの世を去ったというエピソードがある。なぜ今まで読んでいなかったかというと、自分はケチだからあまり新刊を買っていなくて、なるべく図書館で借りて読むようにしているからだ。図書館が購入して、貸し出し予約の長蛇の列に並んで、数か月を経てようやく読むことができる。そんな『FACTFULNESS』が偶然、職場の図書館に置いてあるのを見かけて、ラッキーとばかりに遅ればせながら拝読したというわけですな。

 

ブームが去ってしまった後だが、ようやく読むことができた!

 

日本だけでなく先進国では(主に国の成長に関して)悲観論が取り沙汰されがちだ。パリでの年金騒動が記憶に新しいが、年金といえば日本でも昔から大問題で、ネットを見ていたら「国家主導型ポンジ」という言葉が目に留まった。少子化・高齢化の問題の延長線上で、ひろゆきが論客として売れ、成田さんの「高齢者の集団自決」という言葉が炎上したかと思えば一部では絶賛され、まぁ、混沌とした状態だ。悲観論からの政府叩きは今どきよく売れる。何が難しいかって、今は多様性の時代だから政府としても何をしたらよいのか分からないのではなかろうか。誰かを補助すると、誰かが零れ落ちるわけで、人々のニーズが多様化している中ではターゲットを定めにくい。そういうわけで、政策の被害者が常にいる状態なのだから、政府を叩こうと思えばいくらでも叩けてしまう。そう冷めた目でみていると、だんだんとネット論壇も茶番に見えてくる(かといって、吾輩も今の政治をさほど信頼しているわけではないが……)。

 

国家を挙げて解決すべきとされる少子化・高齢化にしても、案外評価の難しい代物なのかもしれない。まず、少子化・高齢化はそもそも是正が可能なものなのかどうか。先進国での共通の課題であることを考えると、少子化・高齢化というのも "病的変化" というよりは高所得国家の辿る "自然経過" なのではないかと疑う気持ちもちょっとは出てくる。本当に少子化・高齢化が悪いものなのかどうか。確かに現行のシステムでは支えきれない可能性があるのだが(ここを深めようとすると現代貨幣理論などのヤヤコシイ話題がさらに挟まってくる……)、システムそのものが変わった場合は果たして同じような議論になるのかどうか。まぁ、その道の専門家でないから根拠のあることも全くいえず、無責任なコメントでもあるのだが、ただネット論壇の意見が一色に染まり過ぎているのには危うさを感じる。オルテガの『大衆の反逆』(吾輩が読んだのは岩波文庫版)みたいな光景が常に見受けられるわけですな(まぁ、そのオルテガが最も大衆らしい存在として槍玉に挙げたのが吾輩のような専門家だったという話もあるのだが、この話は都合が悪い(?)のでそっと脇によけておこう……)。

 

ときどき聞く街中の意見として「専門家の意見が難解なのは、当の専門家本人がよく分かっていないからだ」という話も耳にする。この指摘は稀に正しいのかもしれないけれど、多くの場合は違うと思うな。感染症の連載を執筆していて思うのだけど、正しく書こうとすると極めて難解になり、分かりやすく書こうとすると不正確な記述がどうしても増えてしまう。不正確な記述を避けるのは専門家としての矜持であり、分かりやすさと正確さであれば正確さを優先してしまうのが専門家の性質なのだ。吾輩が医学書院で連載している「抗菌薬ものがたり」は、その境界ギリギリなところ——つまりは、分かりやすさを維持しつつ間違っていない記述を目標にしているわけで、これを実現するために読み込んでいる文献の数は結構多いのだ。1,000字書くために10本は文献を読まないと話にならない。そんな "専門家の戦い" の現場も知っている立場なので、政府叩きと並行して行われる専門家叩きに対しても、どうしても辟易としてしまう。要は、専門家を本気で叩くのなら文献20本に匹敵するくらいの根拠と最低限のマナーを身に着けてからやりなさいってこと。同時に、専門家側も "科学コミュニケーション" (略して "科コミ")をちゃんとやらにゃいかんのだけれども。

 

物事を単純化しすぎるな。黒幕を作って勝手に納得するな。警戒はしても悲観論に身を染めるな。こういった月並みだけど大切な教訓を専門家の専売特許にせずに一般の読者に広めたという意味で、『FACTFULNESS』はなかなか意義深い一冊だと思った次第である。