つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

タテ社会の人間関係 単一社会の理論

いろいろな会社とやり取りしたり、既得権益者と衝突したりしていると、だんだんと社会に対する興味が広がってくるものである。社会構造を通じて日本というのがどういう国かというのを考える機会が増えてくるわけである。基本的に自分は日本には期待しておらず、「失われた30年」が今後「失われた40年」とか「失われた50年」になる方向に賭けてしまっているわけだが、それでも日本的な何かにソリューションがあるのではないかという希望を捨てきれないでいるところもある。

 

日本がダメな理由としても、まだふたつの仮説から絞りきれていないところがある。つまり、日本が本質的にダメなのか、それとも日本を西洋の尺度で評価するからダメに見えるのかというふたつの考えのどちらが妥当なのかがどうにも定まらないのである。トヨタや五大商社の凄まじい働きをみていると、日本が根本的にダメと断言するのも難しい。恐らくは両方の要素が混ざっているのが現状なのだろうが、その比率というのもまだまだよく分からない。

 

日本を西洋の尺度で評価するからダメに見えるのではという視点をもう少し深めたいと思って、中根 千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)を手に取ってみた。日本の人間関係やリーダーシップはしばしば西洋の尺度に則って論じられがちだが、本当にそれでよいのだろうか、何か見落としている暗黙の了解のようなものがないだろうかと気になったわけである。もっとも、他には経営に関する論文を書く際に「日本と欧米は社会構造上、同列に論じることはできない」というフレーズを使うだろうから、その引用にという意図もあるわけだが……。

 

 

さて、こちらの書籍での議論をみていると、どうにも日本社会は不思議な社会らしい。例えば、「うちの▲▲が……」とか「よそ者」といった言葉は日本から出るとあまり出てこないものらしい。要するに、自分の家の者か、他家の者かという意識が際立って強いものになっている。名刺交換の際にだってこの手の特徴が現れる。つまり、日本人は名刺交換の際に相手の所属している会社の名前を強く意識する。相手がどういう職務に従事しているのかではなく、どこの会社にいるのかが気になってしょうがないのである。逆に、欧米だと相手がエンジニアだとか営業だとか、そういったところに注意が向きやすいのだそうで。

 

それで、著者によると、集団分析は「場」と「資格」に注目して行うことができるとのことである。なるほど、日本は「場」が重視される社会であると。逆に「資格」が重視される社会の代表がインドらしく、カースト制と職業の結びつきの強固さをみるにも、この分析は妥当なのかもしれない。そして、こういった重視する要素の違いが、社会構造にも反映される。すなわち、日本社会は同じ「場」に所属するメンバーが結びつく「タテ社会」であり、インド社会は同じ「資格」を持つメンバーが結びつく「ヨコ社会」であるといった具合だ。ただ、著者は「ヨコ社会」として英国紳士のクラブを例にとって説明をしているので、ここからはそれで説明した方がよさそうである。

 

中根 千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)より

 

「タテ社会」に加入するためには、社会の中にいる誰かとコネを作り、その人の紹介によって加入するというプロセスがとられることが多い。「▲▲さんたっての願いであれば、まぁ、入会を許してやるか」というわけである。ところが、「ヨコ社会」に加入するためには、社会の構成員全員の承諾が必要になりやすいという点が対照的である。要するに、「タテ社会」は新参者に寛容であり、「ヨコ社会」は排他的なのである。ならば「タテ社会」の方がチャレンジャーに有利かというとそうでもない。なぜなら、「タテ社会」に加入すると、最初のポジションは末端であることが決まっていることが多いからである。一方で、「ヨコ社会」に加入した場合は、他のメンバーと対等な立場から始められることが多いようである。吾輩自身の経験でいけば、5年ほど前に入った感染症系のサロンが「タテ社会」で、最近入った総合診療系のサロンが「ヨコ社会」なのかなぁと感じている。

 

リーダーシップも「タテ社会」と「ヨコ社会」で異なる。「タテ社会」の秩序が構成員の階層構造によって維持されている一方で、「ヨコ社会」の秩序はルールによって維持されている。従って、「タテ社会」で何らかの理由でリーダーがいなくなると、誰が後継者になるのかなどで混乱が生じやすい。一方の「ヨコ社会」の場合は、リーダーがいなくなっても、次のリーダーがルールで決まっているので速やかにリカバリーすることができる。リーダーに求められる能力も「タテ社会」と「ヨコ社会」とで異なっていて、「タテ社会」では人を束ねて秩序を維持することが求められる反面、「ヨコ社会」では個人の実務能力が問われやすいところがある。

 

「ヨコ社会」ではルールでの結びつきが本質的だという議論があったが、「タテ社会」で結びつきを構成するものとしてはエモーショナルな要素が大きいという議論もあった。確かに、親分とか子分という言葉をみていると、なかなかにエモーショナルではある。義侠心とか浪花節とか……。そういうわけで、「タテ」の日本社会にとって理想的なリーダーとは、人間社会に対する理解力とか包容力を持った存在のことであり、歴史人物でいえばナポレオンよりも大石内蔵助が適しているという話になる。親分が優れた能力をもつ子分を人格的にひきつけ、いかにうまく集団を統合し、その全能力を発揮させるかが重要なのである。

 

吾輩は実は経営学の中にあるリーダーシップの議論(例えば、Golemanのリーダーシップスタイル)があんまり好きではないのだが、その理由もはっきりしてきた。結局、エモーショナルなリーダーシップのあり方が好きなので、西洋で発達した経営学とは相性が悪いということなのだろう。そう考えると、吾輩も少なからず日本的な人間なのだなぁと思わずにはいられないのである。

 

さて、まとめてみるとしましょっか。

「タテ社会」vs.「ヨコ社会」

References

Nakane, C. (1970). Japanese society (Vol. 74). Univ of California Press.

Nakane, C. (2021). Kinship and economic organisation in rural Japan. Routledge.