つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

アイデアのつくり方

マネジメントスキルを鍛えるべく最近は色々な場所で学んでいるのだが、その中でジェームス・W・ヤング『アイデアのつくり方』(阪急コミュニケーションズ)を読むよう勧められたので早速図書館で取り寄せて読んでみた。どうも米国ではクリエイターの必読書、不朽の名作に挙がるものらしい。僅か100ページ程度の小冊子だが、書かれている内容は「如何にも、その通りだ」と納得のいくものだった。ただ、これだけ有名な作品であるということは、きっと自分もどこかで引用する機会があるだろう。備忘録的に書き留めておくわけである(図書館で借りようにも予約されていることが多く、引用したい時に速やかに引用できる保証がない……)。

 

引用文献になりうる知名度の古典なので書き抜いといた

 

どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり第二に方法である。これはアイデアを作りだす技術についても同じことである。(中略)知っておくべき一番大切なことは、ある特定のアイデアをどこから探し出してくるかということでなく、すべてのアイデアが作りだされる方法に心を訓練する仕方であり、すべてのアイデアの源泉にある原理を把握する方法なのである。(pp. 25-27)

 

イデア作成の基礎となる一般的原理については大切なことが二つあるように思われる。そのうちの一つには既にパレートの引用のところで触れておいた。即ち、アイデアとは既存の新しい要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないということである。(中略)関連する第二の大切な原理というのは、既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。(中略)いうまでもないが、この種の関連性が見つけられると、そこから一つの総合的原理をひきだすことができるというのがここでの問題の要点なのである。この総合的原理はそれが把握されると、新しい適用、新しい組み合わせの鍵を暗示する。そしてその成果が一つのアイデアとなるわけである。だから事実と事実の間の関連性を探ろうとする心の習性がアイデア作成には最も大切なものとなるのである。(pp. 27-31)

 

集めてこなければならない資料には二種類ある。特殊資料と一般的資料である。広告で特殊資料というのは、製品と、それを諸君が売りたいと想定する人々についての資料である。私たちは製品と消費者について身近な知識をもつことの重要性をたえず口にするけれども実際にはめったにこの仕事をやっていない。(中略)一般的資料を集めるという継続的過程もまたこの特殊資料を集めるのと同じように大切である。(中略)さて、この一般的資料を収集するのが大切であるというわけは、私が先にいった原理つまりアイデアとは要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないという原理がここへ入り込んでくるからである。広告のアイデアは、製品と消費者に関する特殊知識と、人生とこの世の種々様々な出来事についての一般的知識との新しい組み合わせから生まれてくるものなのである。(pp. 34-38)

 

以上がアイデアの作られる全過程ないし方法である。

第一 資料集め――諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯蔵をたえず豊富にすることから生まれる資料と。

第二 諸君の心の中でこれらの資料に手を加えること。

第三 孵化段階。そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。

第四 アイデアの実際上の誕生。〈ユーレカ! 分かった! みつけた!〉という段階。そして

第五 現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。(pp. 54-55)

 

 

P.S.

そういえば、色々な企業と付き合っている吾輩を見た母が「結局、(一部の)ベンチャーの人たちがやっていることって、所詮は仲介業であって、汗水たらしてモノを生産しているわけじゃないのよね。そういう仕事ばかり増えているのってどうなのかしら」と疑問を口にしていた。分かる! 分かりみが深すぎる! 少なくとも『現代経済学の直観的方法』を読む前の吾輩もまったく同じ疑問を感じていたのだ。資本主義という名の巨大な幻想をしっかり勉強していないと、このあたりの仕組みにはピンと来ない。

 

資本主義というのは、止まれない暴走列車のようなもので、絶えず価値を生み出し続けないといけないことが宿命づけられている。しかし、新しい価値をゼロから生み出すことは極めて困難だ。新しい価値を生み出すためには、既存の知識を複数組み合わせて —— 既存のといっても、特殊知識と一般的知識の組み合わせがよいらしいが —— イノベーションを重ねないといけない。そして、そのためには異なる価値観のコミュニティをつなぐ必要があり、ここに仲介者の存在意義がある。

 

さりとて「孤掌は鳴らず」で、汗水たらして働く人々がいてはじめてこうした仲介業も成立する。この当たり前の事実を忘れてしまうと、世界を覆うこの巨大な幻想も崩壊してしまうのではないかと危惧する気持ちもある。「アイデアのつくり方」を勉強する一方で、アイデアを生み出し続けること自体が本当に善なのかは、頭の片隅に悪魔の代弁者的な疑問としてとっておきたいところである。

ビジネススキル・フレームワーク(メモ)

これはなんだい。

藤田医科大学総合診療科の大杉教授が主催するマネジメント基礎研修プログラムの講義のメモである。

 

ビジネススキル・フレームワーク

組織を動かす基礎知識として、① マーケティング、② アカウンティング、③ オペレーション戦略に精通しておく必要がある。利益や損益は、収益と支出の差額であり、収益を増やすか、支出を減らすかの対応が必要である。そのための活動の打ち手がマーケティングやオペレーション戦略であり、活動の結果がアカウンティングである。

 

びっくりドンキーのモーニングが好きですが、ポテサラトースト美味いっす

 

マーケティング

マーケティングとは、顧客の満足を軸に売れる仕組みをつくる行為のことで、そのためには市場の動向を把握しないといけない。例えば、医療では患者さんから信頼を得て、選択してもらうことが大切である。大塚製薬を例にとると、ポカリスウエットには明確な顧客想定がある。ひとつは子供のいる母親で、この世代に信頼のある俳優を起用して、家事・育児の場面を題材にCMを作ってPRを行っている。もうひとつは中高生で、学校の自動販売機を占有することを意識するなどの工夫を行っている。

マーケティングの取り掛かりは、外部環境と内部環境の分析である。様々なフレームワークが存在するが、例として3C分析ではCustomer(市場)、Competitor(競合)、Company(自社)を分析する。CustomerやCompetitorは自社でコントロールできない外部環境であり、その分析を踏まえてコントロール可能な内聞環境であるCompanyを分析するという順番が大切である。

Customerには市場規模や成長性、ニーズ、購買決定プロセスなどが含まれる。医療であれば、人口動態の現在と未来、診療科関連の国策などを意識する。Competitorには競合の数、参入障壁、競合の戦略やパフォーマンスが含まれ、ブルーオーシャン戦略の採択が必要である。また、Companyには自社の強みや弱みが含まれる。そして、Customer& Competitor(外部環境)分析からKey Success Factor(KSF)を導き出すことが必要である。なお、複数のKSFが候補に挙がるかもしれないが、遵守すべきものをKSFとしてひとつ選び出すとよい。また、Decision Making Unit(DMU)に確実にアプローチすることを意識したい。DMUとは意思決定関係者のことで、意思決定者、ユーザー、インフルエンサー、購買者、ゲートキーパーの5つを指している。エンドユーザーが必ずしも意思決定するとは限らないことに注意が必要である。

 

アカウンティング

お金の話だが、要は複雑な企業の活動を定量化・可視化することである。財務諸表には損益計算書貸借対照表キャッシュフローが含まれる。そのうち、損益計算書では収益、費用、利益をチェックすることができる。利益は売上と費用の差であり、売上は単価と回数の乗算である。従って、利益を増やすには売上を増やすか、費用を減らすか。売り上げを増やすためには単価を増やすか、回数を増やすかである。医療関連であれば、重症患者にフォーカスすることで単価を増やしたり、利用者数を増やすことで回数を増やしたりする。こういった要素を踏まえて、職員定数、つまりは常勤職員の数などを調整して費用を最適化していく。費用は5大費用区分として、人件費、材料費、設備関係費、経費、委託費に大別されるが、それが適切に振り分けられているかは同業態の他社と比較してみると評価しやすいかもしれない。また、固定費と変動費を意識的に区別し、損益分岐点となる顧客数の目標を定めるとよいだろう。

 

オペレーション戦略

経営戦略のためにはこまごまとしたオペレーション戦略を構築する必要がある。理念のための戦略を構築するには、労働生産性を向上させる必要があるのである。労働生産性とは得られる成果物を投入したリソースで割ったものであり、向上のためにはアウトプット、プロセス、インプットの三者の最適化をすることになる。アウトプットの最適化には、業務量の平準化や閑散期の別業務の導入が挙げられる。プロセスの最適化には、効率的かつ合理的な方法の模索が挙がるが、休暇による体力温存や外部委託も含まれる。インプットの最適化には、繁忙期と閑散期とで投入資源を差別化するなどが挙げられる。重要なのは、アウトプット、プロセス、インプットの順番で最適化案を立てていくことである。なお、日本の医療現場の問題点は、オペレーション戦略ができていない現場ばかりだということである。患者数が多い時に医者を増やすことしか考えられていない医療現場があまりにも多い。インプットだけを、それも最初に考えてしまっているという点で下策中の下策なのである。オペレーション戦略を学ぶにはトヨタ式の「カイゼン」を参考にするとよい。シミュレーションや実行の中で、ボトルネックを特定する努力を怠らないようにする。その心は、「早く早く」というよりは「楽に滞りなく」というところにあることも忘れない。

 

最後に

医療にお金の話を持ち出すのは、医療の継続性のためである。経営に背を向けずに、向き合い続けなければ、医療を続けることはできない。

志を真面目に議論する(メモ)

相変わらずこれは何なのか

藤田医科大学総合診療科の大杉教授のもとでマネジメント基礎研修プログラムを聴講しているのだが、その内容をメモしている。今回は「志を育てる」というテーマである(吉田松陰っぽい?)。こういう熱い話に加わるのは嫌いではないよ。

 

居酒屋ランチでよくお世話になる「山鶴」は唐揚げがよき

 

なぜ志を育てないといけないのか

どんな領域においても、プロフェッショナルは人を欺くことができる。知識で悪事をなすことができてしまう。プロフェッショナルが世に貢献する大前提として、知識の上に倫理観を乗せておく必要があるのである(なんだか『孟子』っぽいなぁ……)。

 

情報を発信する

多くのリーダーが情報発信をしている。情報発信していない人間のスタンスは周囲に分かりにくい。フォロワーがついていきようがないのである。また、どんなに良い仕事をしていても、認識されなければ存在しないのと同じと見なされるというのもある。

 

なぜキャリアや志が大切なのか

キャリアというのは、馬車のわだちが語源である。つまり、今までの軌跡であり、これからどのような軌跡をつけていくのかということである。現代社会は技術の進歩が著しく、軸を持っていないと振り回されやすい。方向性を持っていないと流される。流されてもよいという人はともかく、流されずに自分らしく生きたいというのであれば、キャリアや志は必須である。自分が何をやりたいのかを熟考し、方向性を明確にして、実行に移す。「今日」は人生において最も若い日であり、動き出すのは常に「いま」でなければならない。

 

志は大きくなければならないのか

志といえば、「少年よ、大志を抱け」という言葉が有名である。「大志」と聞くと、10年計画、50年計画のイメージがどうしてもつきまとうが、果たしてそのような遠大な志を抱けるものかというと、現実的には難しい。実際には「小志」と称して、「一定の期間、人生をかけてコミットできる目標を立てる」というのも立志の在り方として考えられるのではなかろうか。つまり、5年くらいの目標を立てて、取り組んでみて、フィードバックを得る。その後は次なる目標のために自問自答して、この「小志」のサイクルを繰り返すわけである。

 

志はいつ大きくなるのか

上述の通り、「大志」は初期に抱けるものではないのだろう。むしろ、「小志」を積み重ねていって、その蓄積が20年、30年ものになった段階で振り返って、後方視的に解釈して、はじめて現れるのが「大志」ではないのか。そういう考え方もあるだろう。大きなことを成し遂げる上で大切なのは、「小志」のサイクルを繰り返して大きくしていくことなのである。そう考えると、「大志」は後付けと割り切ってしまってもよいのかもしれない。

 

小さな志を立てるために必要なこと

「小志」のサイクルを繰り返すために大切なことは、(1)自問自答を繰り返して準備態勢を万全にしておく、(2)様々な人的ネットワークを構築しておく、(3)社内外の情報に敏感になっておいてチャンスを積極的に掴みに行く、(4)能力開発を怠らないといったことが必要である。

 

新しい一歩を歩む心得

「現在の前提」と「現在の行動」をひたすらループする学習姿勢を "シングルループ学習" と呼ぶ。この学習姿勢には安定感があるが、画期的な学びにはつながりにくい。一方で、「現在の行動」に際して何らかの外部刺激を受け、「現在の前提」でなく「新しい前提」へと認知を改め、ループを刷新する学習姿勢を "ダブルループ学習" と呼ぶ。ダブルループ学習に至るために大切なことは、ちょっとした外部刺激を蔑ろにせずに、意識して行動変容につなげていくことである。

 

人的ネットワーク

密で狭いつながりは安心感があり、コミュニケーションもとりやすいので、これはこれで大切にするべきである。ただし、このようなつながりからは新しいアイデアが生まれにくい。そういったつながりだけでなく、広く浅いつながりを作っておく。いざという時に、自分にないスキルを拝借したい場合などに役立つのは、そういった浅く広いつながりであることが多い。

結果を出すリーダーの働き方(メモ)

唐突にこれは何なのか

藤田医科大学総合診療科の大杉教授のもとでマネジメント基礎研修プログラムを聴講しているのだが、その内容をメモした。今回は「結果を出すリーダーの働き方」というテーマである。ちなみに、次回以降もこのようにまとめるかは不明。吾輩のやる気次第である。

 

水曜日に当直に入る時は必ずこれ食べる

 

あたまの使い方

同じ内容でも「主語・場所・時間」を変えて考えると異なる結論が導かれる。これは「視点・視座・視野」を変えると言い換えられる。ひとつの「視点・視座・視野」に留まってはならない。「現場主義」とは、トップがトップの座からいったん現場に降りはするが、その後にまたトップの座に戻って決断することである。トップは現場に降りたまま決断してはならない。現場で決断するのは「現場主義」ではなく、ただの「現場判断」である。「視点・視座・視野」を臨機応変に変えられることが重要なのである。

 

結果を出すリーダーの働き方

1)パワー基盤をつくる

仕事の成果は、戦略と実行度の掛け算である。実行度はパワーで規定され、パワーの源泉は信頼である。「信頼」は、なすことの大義、その人の専門性(能力)、ネットワーク(人脈)、人間性、そして言行一致によって成立する。パワー基盤をつくるプロセスとして、まずは[1]信頼残高を増やすことが大切である。日々の挨拶など些末な習慣を大切にすることが信頼残高に繋がる。信頼残高を作れれば、[2]人脈を作ることができる。機能する人脈とは、困った時に誰か適任者を紹介してくれるようなつながりのことであり、こういったつながりを日々意識して築いておく必要がある。また、[3]利害関係を斟酌して根回しする努力を怠ってはならない。

 

2)基本的なプランを構築する

プランは動画のイメージで表現できるものでなければならない。誰が案件に関わって、その人たちがどんなタイプで、その人たちによって何がいつまでにできそうか。これが明確になることをプラニングと呼ぶ。そのためには、[1]会社のミッションやビジョンとの整合性を担保する必要がある。これは、壁に当たった時の挫折に対する抑止力として働く。次に、[2]やること、やらないことの判断基準を明確化する。やらないことを明確化せずに失敗するケースが多い。そして、[3]マイルストーンの構築。これをしないと途中段階でのフィードバックができなくなる。[4]リスクを想定することや[5]定期的にプランを見直すことを最初に盛り込むことを忘れずに。

 

3)実行にとりかかる

実行するには士気が大切である。士気の根本は信頼であり、そのためには成果を見せる必要がある。成果を見せるためには "small win" を積極的に狙う。これは最も効果の上がりやすいことを優先的にやるということでもある。例えば、最悪の状況、最も簡単な状況、最も困っている状況は成果を可視化しやすい。また、成果を称賛することはチームの士気を上げる効果がある。「できる」(can)よりも「やりたい」(want)。「やりたい」(want)よりも「やるのが楽しみ」(enjoy)。ここまでチームを持っていくことを目標とする。「やりたい」(want)と思わせる程度では不十分なのだ。米国企業の楽しみとしては、"Friday night" という習慣が存在し、みんなでピザを食べて、互いに褒め合う文化を作っているようである。参加メンバーを巻き込むことも重要で、相手の存在を認めつつも、自らの思いを伝えて態度で見せる。相手を存在しないかのように扱うことをしないよう注意する。

 

4)実行を継続する

継続の要はコミュニケーションであり、聞き手と話し手には常に温度差があることを意識することが非常に重要である。言ったことを聞いてもらえているとは限らないし、聞いてもらったことが聴かれたとは限らないし、聴いてもらったとしても理解してもらえたとは限らない。コミュニケーションの難しさはかくのごときものである。コミュニケーションの円滑化のため、組織文化から入っていくのはひとつの方法である。日本で社員旅行が失われていく間、GAFAMでは社員旅行にお金を出して推奨していたとのことだが、これはコミュニケーション文化の醸成という名目であった。会議で偉い人がしかめ面をしているとコミュニケーションの妨げになるため、アイスクリームをわざと会議に出してしかめ面を阻止している企業が存在する。甘いもので毒物を浄化するのも姑息だが有効な場面がある。

 

5)自ら成長し続ける

まず、[1]目の前のことに集中して後回し・人任せにしない。例えば、オフィスの珈琲が残り僅かな状態で残っている時に、放置せずに自分で洗いに出せるか。些細なことを蔑ろにしないことである。また、[2]ロールモデルを念頭に置き、[3]メンターを持つことが成長の秘訣である。メンターは複数人いてもよい。意欲的であるにも関わらず伸び悩む人はメンター不在のケースが多い。[4]自ら振り返る時間をもつことも大切で、時にひとりになって内省するようにしたい。マルクス・アウレリウスの『自省録』は参考になるかもしれない。日本には温泉という最高の場所がある。[5]身の回りにあることを全てから学ぶ姿勢を持つことも大切だが、変に権力や財力があると足で稼ぐことを蔑ろにしがちなので注意したい。市民を知りたければ、企業にアンケート調査を頼むのでなくて自分の足で市民に問いにいくべきである。また、[6]学び方を知れば、他のことを学ぶスピードも速くなる。学び方を知るには常にチャレンジし続けること。常に新しいことに取り組んでみること。そういったチャレンジする姿勢を同僚に見せることで、[7]個人だけでなく集団の成長を促すことも、結果的に個人の成長につなげることができるであろう。

1,200文字の原稿

執筆業は、自分の中でも割と得意な仕事である。どんなに忙しくても、その場で速攻でこなしてしまう。そして、記事を1本仕上げた後の達成感もなかなかに悪くない。ただ、そんな執筆業でも記事の長さによって得意・不得意のグラジエントがあるということに最近気がついた。吾輩が不得意を自覚する文字数は今のところよく分かっていないのだが、とりあえず1,200文字の記事を書くのが割合得意だということは分かった。というのも、本気を出せば20分で気持ちよく仕上げられてしまう。生々しい話をすると、1,200文字の医療記事の相場は5,000~10,000円くらい。兼業ライターとしては悪くないタイパではなかろうか。

 

びくドンで食べたメンチカツ、脂っこ過ぎず美味であった

 

なぜ1,200文字かというと、研修医時代からお世話になっている出版社さんから依頼される連載の文字数が1,200文字だから。暇さえあれば、1,200文字の記事を書く。暇がなくても血液検査の結果待ちの時間などから捻りだして、1,200文字の記事を無理矢理書き上げる。真面目にパソコンを開いて書くこともあれば、何か別の作業をしながら頭の中で書いていることもある。そんな生活を何年も続ける。最初はひとつのテーマで800文字になってしまったり、2,000文字になってしまったりとブレがあったのだが、さすがに20本くらい連載記事を書いたあたりから1,200文字の感覚が腕に沁み込んできて、文字数をカウントすることなくピッタリの文字数の記事を書けるようになったというわけである(校正の過程で増減はするけれど)。

 

1,200文字を得意にして良かったのは、某ポータルサイトも偶然1,200文字の記事を定期的に募集していること。苦手なテーマで募集されていても、スキマ時間を使ってなるべく応募するようにしている。やると決めたら、「起承転結」を300文字 × 4 = 1,200文字で表現する。脳裏に描くは頼山陽の「大阪本町糸屋の娘」。臨床での感動エピソードからウマ娘の話題まで、「諸国大名は刀で殺す、娘二人は眼で殺す」方式で組み立てる。無意識のうちに記事を書き上げ、後で読み返してバチッと「起承転結」が決まっていた時なんかは「してやったり」とニンマリするわけだ。もちろん、バチッと決まった記事が落とされたことは一度もない(逆に落とされた記事はいずれも書き上げた瞬間の手応えが悪かった)。

 

このように振り返ってみると、吾輩が1,200文字を得意とする理由が「起承転結」と相性が良いからなのかもしれないことに思い至る。最初の頃、1,200文字の課題をいただいた時に800文字や2,000文字の記事を書いてしまっていたのは、単純に「起承転結」が上手くできていなかったからなのかもしれない。「起承転結」になり切れていないから、記事全体が歪な形になってしまうわけだ。こうして、文字数を決めるのは内容でなく型であることに改めて気づかされるわけである。

その指標はサロゲート・マーカーじゃない

臨床現場において、患者さんが元気になっているのか、それとも病状が悪化しているのかを判断するのは意外に難しい。例えば、腎盂腎炎という腎臓まわりの感染症があって、これは極めてありふれた病気なのだが、適切に診療できる医師は案外少ないものだ。というのも、この病気は熱が結構長く続く。要は "自然経過" であり、抗菌薬を投与していても38℃とか39℃の熱が続いてしまうものだ。すると、医師の多くが猜疑心に駆られる。「自分が選んだ抗菌薬は正しくないのかもしれない」と。こうして、抗菌薬はより守備範囲の広いものへと変更され、患者さんは解熱して、医師も患者の一安心するわけだ。ところが、後から検出された細菌をみてガッカリする。「こんなに守備範囲の広い抗菌薬を使わなくてもよかったのでは……」と悔しい気持ちになるわけだ。どうだろう、医師なら思い当たる節があるのではなかろうか。

 

結局、この腎盂腎炎のケースでは、熱を初期治療の効果判定の指標として使うのは適切でなかったということになる(もちろん、4日以上発熱が続くなら気にした方がよい)。むしろ、患者さんが食事を食べられるかとか、症状の腰痛が改善傾向にあるかとか、そういった指標も織り交ぜて総合的に判断するべきだったということになるわけだ。このように、臨床現場で患者さんの病状を反映する指標は色々とあるのだが、治療の成否へと確実に直結する単一の "サロゲート・マーカー" を見つけるのは容易ではない。しかし、ひとつの指標を過大評価するあまり、それをサロゲート・マーカーと同一視してしまう誤りも、医師として仕事をしているとよく経験する。

 

この手の問題は臨床医学に留まらないようで、最近読んだ『FACTFULNESS』(日経BP)はなかなか示唆に富んでいた。この本は2019年に翻訳版が日本で発売され、ベストセラーにもなった教養書である。世界の貧困などに関する思い込みを、データを引き合いに出して一刀両断していく主旨の本で、著者はこの本を書き上げて間もなくこの世を去ったというエピソードがある。なぜ今まで読んでいなかったかというと、自分はケチだからあまり新刊を買っていなくて、なるべく図書館で借りて読むようにしているからだ。図書館が購入して、貸し出し予約の長蛇の列に並んで、数か月を経てようやく読むことができる。そんな『FACTFULNESS』が偶然、職場の図書館に置いてあるのを見かけて、ラッキーとばかりに遅ればせながら拝読したというわけですな。

 

ブームが去ってしまった後だが、ようやく読むことができた!

 

日本だけでなく先進国では(主に国の成長に関して)悲観論が取り沙汰されがちだ。パリでの年金騒動が記憶に新しいが、年金といえば日本でも昔から大問題で、ネットを見ていたら「国家主導型ポンジ」という言葉が目に留まった。少子化・高齢化の問題の延長線上で、ひろゆきが論客として売れ、成田さんの「高齢者の集団自決」という言葉が炎上したかと思えば一部では絶賛され、まぁ、混沌とした状態だ。悲観論からの政府叩きは今どきよく売れる。何が難しいかって、今は多様性の時代だから政府としても何をしたらよいのか分からないのではなかろうか。誰かを補助すると、誰かが零れ落ちるわけで、人々のニーズが多様化している中ではターゲットを定めにくい。そういうわけで、政策の被害者が常にいる状態なのだから、政府を叩こうと思えばいくらでも叩けてしまう。そう冷めた目でみていると、だんだんとネット論壇も茶番に見えてくる(かといって、吾輩も今の政治をさほど信頼しているわけではないが……)。

 

国家を挙げて解決すべきとされる少子化・高齢化にしても、案外評価の難しい代物なのかもしれない。まず、少子化・高齢化はそもそも是正が可能なものなのかどうか。先進国での共通の課題であることを考えると、少子化・高齢化というのも "病的変化" というよりは高所得国家の辿る "自然経過" なのではないかと疑う気持ちもちょっとは出てくる。本当に少子化・高齢化が悪いものなのかどうか。確かに現行のシステムでは支えきれない可能性があるのだが(ここを深めようとすると現代貨幣理論などのヤヤコシイ話題がさらに挟まってくる……)、システムそのものが変わった場合は果たして同じような議論になるのかどうか。まぁ、その道の専門家でないから根拠のあることも全くいえず、無責任なコメントでもあるのだが、ただネット論壇の意見が一色に染まり過ぎているのには危うさを感じる。オルテガの『大衆の反逆』(吾輩が読んだのは岩波文庫版)みたいな光景が常に見受けられるわけですな(まぁ、そのオルテガが最も大衆らしい存在として槍玉に挙げたのが吾輩のような専門家だったという話もあるのだが、この話は都合が悪い(?)のでそっと脇によけておこう……)。

 

ときどき聞く街中の意見として「専門家の意見が難解なのは、当の専門家本人がよく分かっていないからだ」という話も耳にする。この指摘は稀に正しいのかもしれないけれど、多くの場合は違うと思うな。感染症の連載を執筆していて思うのだけど、正しく書こうとすると極めて難解になり、分かりやすく書こうとすると不正確な記述がどうしても増えてしまう。不正確な記述を避けるのは専門家としての矜持であり、分かりやすさと正確さであれば正確さを優先してしまうのが専門家の性質なのだ。吾輩が医学書院で連載している「抗菌薬ものがたり」は、その境界ギリギリなところ——つまりは、分かりやすさを維持しつつ間違っていない記述を目標にしているわけで、これを実現するために読み込んでいる文献の数は結構多いのだ。1,000字書くために10本は文献を読まないと話にならない。そんな "専門家の戦い" の現場も知っている立場なので、政府叩きと並行して行われる専門家叩きに対しても、どうしても辟易としてしまう。要は、専門家を本気で叩くのなら文献20本に匹敵するくらいの根拠と最低限のマナーを身に着けてからやりなさいってこと。同時に、専門家側も "科学コミュニケーション" (略して "科コミ")をちゃんとやらにゃいかんのだけれども。

 

物事を単純化しすぎるな。黒幕を作って勝手に納得するな。警戒はしても悲観論に身を染めるな。こういった月並みだけど大切な教訓を専門家の専売特許にせずに一般の読者に広めたという意味で、『FACTFULNESS』はなかなか意義深い一冊だと思った次第である。

逆説的に忙しくなった?

業務内容を再編し、臨床から研究・教育へと少し重心を移したのがつい最近の話。すると時間ができて、暇ができて……となるのを期待したのだが、まったくそんなことはなく、却って忙しくなった。ただ、忙しさの質が心地よいものになったように感じる。理由は簡単。まず、頭が冴えてきたので、臨床・研究・教育における問題点がこれまで以上に明確に見えるようになってきた。加えて、気力も充実してきたので、そういった問題点がひっきりなしに噴出してきても、億劫な気持ちにならず、ひとつひとつ対処してやろう!という気になるのだ。

 

そういうわけで、真面目に仕事をするようになったので忙しくなった。いままでが不真面目だったわけではないのだろうが、振り返ってみると真面目になりきれていない部分があったなぁと実感するのである。疲弊している時の全力と万全の時の全力とでは、どうしても大きな隔たりがある。少し時間ができた時に「ちょっと休憩しよう」となるか、「あの仕事をやろう」となるか。体力や気力がここの分岐点に少なからず影響するわけだ。

 

帰省して食べる食事もまた格別

 

研究や教育が好きで得意といっても順風満帆というわけではなく、両者とも頭がクラクラするような案件を多く抱えている。例えば研究に関しては、レセプトデータを集めようとしたところ、大規模なデータを扱える人が周りにほとんどいないことが判明し、早速やろうと思っていた研究のひとつが頓挫するという難事にぶつかった。この研究は自分が主体となる研究ではなく、むしろ専攻医の先生にデビュー作として差し上げようと思っている研究なだけに、なおさらしんどいものがあるのである。最近は総務省統計局がデータサイエンティスト育成プログラムを無料公開しており、自分も参加して勉強させていただいているのだが、自分だけがデータを扱えるようになっても効果としては弱いのかなぁなんて思ってしまった。

 

研究関連でもう少しいくと、現在の職場でランダム化比較試験をいくつか走らせるのを計画している段階である。これまで自分がやってきた研究は後ろ向き観察研究ばかりで、システマティックレビュー・メタアナリシスがようやく慣れてきたところ。ランダム化比較試験はまったくやったことがないので、どう手をつけたらよいものかよく分からない。分からないなりに進めながら、上司に「うむ、それでよい」「いや、そうでない」と断片的なコメントをもらいながら修正している感じ。完全に未知の内容で頭がクラクラする場面が多いのだが、気力が充実しているものだからワクワクもする。こういう状態が一番上達するのではと思うわけだ。

 

教育に関しては、内向きの話と外向きの話に分かれる。内向きの教育の話としては、病院の学生教育担当教官になった(「総合診療科の」でなく「病院の」なので、結構責任重大)。それで、東京医科大学の学生さんが新宿から一定期間だけ茨城にやってきて、実習を受けて帰るのだが、その帰り際に試問をやるわけだ。はじめての試問は散々だった。まず部屋に入ると見たことのないパワポスライドが用意されている。「このパワポは何ですか」と聞いたら、「先生がプレゼンするやつ」と事務職員さんに言われ、ぶっつけ本番のアドリブをやる羽目になった。吾輩パニック、しらける学生。壊滅的だった初回の試問も、学生アンケートでは90点とか100点とかもらえていたけれど、これは満足度が高いというよりかは、学生さんたちが優しかっただけだったのだろう。当然ながら、リベンジを誓ったわけだ。

 

2回目の学生試問は、本気で準備して臨んだ。まず、過去10年くらい使われてきた伝統あるパワポスライドは廃止。だって、見ていると綺麗な建前ばかりが並んでいてつまらなかったんだもの。「地域を支える総合的な能力の涵養」みたいな文言が並んでいたけど、吾輩はそういう堅苦しいのは嫌いだから全部ボツにしておいた(大切な精神であることは認める!)。そういった文言を「地域医療はこんなにワイルドだ!」みたいな文言へと片っ端から変えていって、全体的に「医者と学生、ホンキのホンネでぶつかろうぜ!」というニュアンスにすり替えてしまったわけだな。そして、救急外来での面白い症例をベースに臨床シナリオをいくつか作って、学生さんたちと臨床推論ゲームで遊んだ。少なくとも5分に1回は笑い声が上がっていたし、内容も相当教育的なものにしたから、「面白くてためになる」という吾輩のレクチャーの目標も達成できたのではと思うのだ。あとは、学生アンケートの結果をみて改善していくつもりだ。

 

外向きの教育としては、医学生や研修医教育に携わる医師の教育法を教育する活動が最近増えている。つまりは "teachers' teacher" とか教育プロデューサーと呼ぶべき仕事だ(ちょっと大袈裟かも)。色々な先生方の講演を見て、「ここはもっと強調すべき!」「ここはカットすべき!」「愛がたりない!」みたいな助言をしている。あとは、スライドを拝見させていただいて、「7行ルールを徹底しなさい!」「この表は著作権違反!」「この図はこう作り直すと綺麗になる!」みたいな助言もする。なにが辛いかといえば、ひとつには吾輩の年齢が若すぎること。あとは、「これはどこから手を加えたら良いのだろう……」とクラクラしてしまうような講演やスライドを時折見かけること。助言する相手が吾輩よりも年上でジェネレーションギャップもあるので、どうしても憚りがあるのだ。ただ、幸いにして助言した先生方の多くに吾輩の意見を受け入れていただけていて、講演後に感謝の言葉を頂戴することもあるので、それなりにはやれているのかなぁと(心配ながら)少し前向きに考えている。教育コンサルテーション依頼の件数が少しずつ伸びているから、及第点ではあるのだろう。

 

まぁ、他にも色々とやっているのだが、その話はいずれ明かす機会もあるだろうし、今回はおいておこう。常に何かの仕事をやっている状態が続いているが、タスク変更前と比べて疲れにくくなって億劫病にも負けなくなったのは良かったと思う。しかし、吾輩はこれから何者になってしまうのであろうか。自分でもよく分からぬ。