つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

マンモスの化石で元気になれるか検証中

医者として、臨床・教育・研究・執筆と多方面で仕事をするのはなかなか大変だ。「人間には1日24時間しか与えられていない」というのもそうなのだが、自分の場合はそれ以前にスタミナが足りていないので、早朝の数時間くらいしか絶好調で仕事ができないという問題がある。自分よりも5年くらい上で世間的に名前の通った先輩方が「時間が全く足りない」と嘆かれているのをよく見かけるが、自分の場合は「時間以前にスタミナが全く足りない」という悩みがあるわけだ。自分に1日あたり48時間を与えられたとしても、有効活用できる自信はない。

 

城藤茶店の「お餅のワッフル」、パリッとモチモチな斬新食感

 

そもそも自分にとっては、9時~17時で集中力を維持することが困難なので、周りの医療従事者が「普通に」日々の仕事をこなしている事実ですら衝撃的なのである。もし自分が17時までまともに仕事をするのであれば、昼寝は必須だ。しかし、昼寝のやり方が下手だと、今度は頭を再覚醒させるのが非常に大変で、そのための無駄な時間が発生してしまうのも悩ましい。「普通に」仕事をするのは、正直とても難しい。それでも、我々は「普通に」仕事をしなければいけない。

 

体力のない人間が人並みに仕事をするためにはどうしたら良いのだろう —— これは非常に切実な問題だ。早寝して睡眠時間を確保しようにも、就寝時刻を前倒しにすると逆に眠れなくなってしまい、かえって寝不足で疲弊してしまったこともあった。また、食後の眠気対策のために食事量を控えめにすると、短期的には活動性を落とさずに済むのだが、長期的にはじわじわと馬力が衰えていってしまうものだ。そういうわけで、なかなか良い解決策がない(だけど、解決しないといけない)。

 

GW中はガッツリ読書していた! 慣れないテーマも織り交ぜながら……

 

最近の試みとして、漢方薬によるセルフメディケーションを始めた。もともと(東大医学部の授業をサボって)慶應薬学部に通って漢方医学をみっちり勉強してきた身ではあるので、『傷寒論』や『金匱要略』に載っているような漢方薬はある程度うまく扱える自信がある(自分に対しては……)。これまでは、本当に体調が悪い時しか漢方薬によるセルフメディケーションをやっていなかったのだが、最近は調子の絶不調に関わらず、その時の身体のコンディションに応じて適した漢方薬を選択して定時で内服するようにしているわけだ(徳川嫌いなのに、家康公の真似をしている……)。もちろん、偽性アルドステロン症という副作用はあるので、脚がつったりむくんだりしたら、休薬するつもりだが。

 

自分は東洋医学的に言えば、虚証体質で、メインは気虚。そこに気逆と水毒が少し併存しているようなコンディションだ。そして腹直筋攣急や腹部動悸が日常的にある(このあたりは全部テクニカルターム)。こういった情報を統合した上で、桂枝加竜骨牡蛎湯[けいしかりゅうこつぼれいとう]を常用するようにしている。桂枝加竜骨牡蛎湯というのは、お腹が弱い人の風邪薬として頻用される桂枝湯に竜骨(マンモスの化石)と牡蛎ブレンドした漢方薬だ。この漢方薬を、最近は毎食間に飲むようになったのだが、そうしているうちに急に集中力が切れたり、急に睡魔に屈したりということが起こらなくなったところがなかなか面白い。こういった具合に、自分の体質に合った漢方薬が見つかっているというのもなかなか幸せなことだなと感じる —— まぁ、プラセボ効果が半分くらい入っているかもしれないけれど、それはそれでよかろう。

 

もちろん、桂枝加竜骨牡蛎湯以外の漢方薬を使うこともある。例えば、医療従事者をやっていると、一度に大量のストレスに暴露されて強烈な鬱へと押し込まれるイベントが定期的に発生する(生身の人間を相手にする仕事なので致し方ない)。けれどもそんな時に憂鬱気分を引き摺ってしまっては仕事が手につかないので、速やかに気持ちをリセットしなければならない。そんな時に、虚証の自分が飲む薬が加味帰脾湯[かみきひとう]である。よく分からないのだが(オキシトシン分泌刺激が関係??)、自分の場合は加味帰脾湯を内服すると憂鬱気分を一瞬で吹き飛ばすことができるのだ。おまけに、黄耆と人参が入っているので体の疲労も軽減する効果もある。そういうわけで、これも自分の体質に合った漢方薬なのだろう。

 

漢方医学を学ぶ意義は色々とあるとは思うのだが、自分の場合はセルフメディケーションに使えるというのが一番大きい。もちろん、内科外来で患者さんに処方することもあるし、患者さんからそれで喜ばれることもしばしばあるのだが、最も効果を実感しやすいのは自分自身に使った場合だ。そういうわけで、漢方医学を学ぶ際には是非自分でも漢方薬を煎じて飲んでみることをおすすめしたい。昔は株式会社ツムラが主催する勉強会なんかでよく煎じ薬が配られていたのだけれど、最近はどうなっているのだろうなぁ。

 

漢方薬を勉強するコツ? それは、❶ 漢方薬を実際に自分で飲んでみること(お腹を壊しながら学ぶ)、❷ 漢方薬を構成生薬に分解して各生薬の役割を確認した上で漢方薬全体としてどんな効果になるのかに思いを馳せること。特に、構成生薬の役割を勉強する時には、ひとつの生薬だけに着目するのではなく、複数の生薬の組み合わせに着目するのが良いと思う。例えば『薬徴』によると、甘草は単独で「急迫を治す」と書かれているのだけど、これを桂皮 + 甘草の組み合わせにすると「気逆を治す」という新たな意味合いを帯びてくるのだ(田畑隆一郎『傷寒論の謎 二味の薬徴』)。そういう目で桂枝湯とか葛根湯などを見てみると、急性期に使えそうな漢方薬だなー、風邪に伴う頭痛とか気持ち悪さも多少は緩和してくれるのかなーというふうに想像できるわけ。実は漢方医学って驚くほど理詰めの学問なのだけれど、なかなか理解されていなくて勿体ないなぁと感じている。実際に勉強してみると、ロジカルな人ほどハマるのではなかろうか。

 

春になって、メダカも産卵するように(白いのは無精卵)

内科専門医試験対策がなかなか……

病院総合内科の運営をどうのこうのとやっていると、つい自分が専攻医であることを忘れてしまう。しかし、まだ自分は20代である。実はレジデントの身分だ。ある勉強会では自己紹介した時に「レジデントですよね?」と返されたことがあるのだが、「言われてみればレジデントでした」とすっとぼけた発言をしたこともあった(無意識)。レジデントであるという自覚一切ナシ。しかし、それでも制度には乗っからないといけないわけで、内科専門医試験も受験しなければならないのだ。そういうわけで、昨年度の3月頃からせっせと内科専門医試験のためにお勉強しているのだ。

 

田中清月堂の和菓子はいつ見ても美しい(実は300円未満)

 

具体的に使っている問題集としては、『medicina 2017増刊号 必修内科問題182問』(医学書院)、『QB 総合内科専門医試験 予想問題集』vol. 1, 2(メディックメディア)の合計3冊で、そこに無料で公開されているケアネットのコンテンツとして水曜日の夜に「長門流 内科専門医試験 出るズバッ!LIVE 2022」を視聴したり、土曜日の朝に「THE内科専門医問題集 見るラヂオ」を視聴したりといった具合だ。他に過去問を買ったり、内科学会の問題集を買ったりしてもよいかと一瞬考えたのだが、現金を使いたくないマンだったり(基本的にAmazonギフト券で手に入るものしか買わない主義)、内科学会にお金が流れていくのがなんだか癪だったりの理由で、結局は買わないことにした。自分が汗水たらして稼いだお金が例の症例登録システムの整備に投下されるのなんて想像したくもない……(じゃあ、なぜ機能不全の制度が専攻医の意見ガン無視で全速前進を続けているのかといえば、運営側がいわゆるサンクコストの誤謬に陥っているだけなんじゃないかと個人的には感じているわけで……)。

 

自分は感染症屋さんで、救急的な内容も割と好みではあるのだが、悪性腫瘍の遺伝子変異と分子標的薬との対応どうのこうのとかはちょっと、ねぇ?……という感じである(腫瘍崩壊症候群などのオンコロジック・エマージェンシーは好きだけど)。得意分野と苦手分野があまりにもハッキリとし過ぎているので、どうも対策しづらいなぁと感じている。というわけで、苦手な悪性腫瘍に関しては暗記ノートにまとめて、直前に一気に暗記して試験直後に全部忘れてしまおうという作戦をとるしかない。例えば、t(14;18) は "fourteen" なので「濾ふぉー型リンパ腫」、t(8;14) は「はち」なので「ばーキットリンパ腫」といった感じで無理矢理詰め込んでいる有様だ。試験が終わったら、こんなしょうもない語呂合わせ、サウナに入って脳みそからパーッと飛ばしたるわ!なんて考えている。

 

使わない知識は頭を重くするから嫌なんだ。例えば、仕事で自分の詳しくない知識を使わざるをえない場面に何度も遭遇するけれど、錆びついた記憶の引き出しを無理矢理こじ開けるんじゃなくて、黙ってUp to Date®とか論文とかを読んでしまった方が数百倍適切なプラクティスになると思うのよ。暗記よりもカンニングの方が簡単だし、正確だし、応用も効くしで、日本の医療現場ではカンニングのトレーニングをもっともっとたくさんやった方がいいんじゃないかなぁ(病院総合内科の後輩たちにはカンニングこそ最強と吹き込んでは、折に触れて訓練してもらうようにしている)。ちなみに自分が東大感染症内科にいた頃は、カンファ中にピコピコッ!と絶えず論文PDFの投げ合い合戦が行われていて、それはそれで異様な光景だった。みんなニコニコした顔のまま、手元のスマホで論文を得物に殴り合いしていたわけで……。あの時は日々のカンファが恐ろしくてしょうがなかった。。(汗)

 

時に、『QB 総合内科専門医試験 予想問題集』vol. 2がやたら難しい気がする。なんせ、ほとんどの問題の解説文に付箋が貼ってある。ほぼ全てのページに付箋が貼ってあるせいで、凄く勉強していますオーラを放っているんだが、残念ながらこれは今まで不勉強だったことを反映しているに過ぎない。だって、感染症屋さんが再生不良性貧血の免疫病態がどうのこうのとか、多発性硬化症の再発寛解型がどうのこうのとか、分かるわけないじゃん!(逆に分かっていたらドン引きしませんか?)……まぁ、知らない知識が定期的に出てくるのは知識欲を満たしてくれる要素もあるので、この付箋まみれの有様が嫌というわけでもないのだが。ただ、実際の試験でこのレベルを出されるとしんどいなぁーというのはある。

 

付箋だらけ。対策ヤバめでございます

 

問題集を解いていると、ちゃんと勉強していない分野が分かるというのはありがたいことだ。ただ、どちらかといえば、試験対策のためではなくて日常学習のために問題集を解いていたい気持ちがある。個人的には、MKSAP(米国内科医のための問題集)を毎日解いて知識をアップデートしたい気持ちが強いのだが、このMKSAP、なんと10万円近くしてしまうのだ!! 何度も南江堂のページを開いては、ため息をついてページを閉じることを繰り返してしまっていて、「いやいや、これは自己投資だから」と自分に言い聞かせてまたページを開くのだけれど、結局はページを閉じてしまう。我ながらどんだけケチなんだか。ケチもこのレベルに達すると、ただの馬鹿である。せめて、しょうもない思考に陥らないためにも、軍資金をしっかりと稼がにゃならん。

 

そう考えると、内科専門医試験の受験料3万円も馬鹿にならんなぁと思うわけである。USMLEは救いようのないレベルのぼったくりだと思うのだが、内科専門医試験も十分ぼったくり。過剰対策でも過小対策でも最終的には損をするとなると、どのあたりが妥当なんだろうか。受験が終わったら、病院総合内科の後輩たちに実体験を踏まえたアドバイスを残していかなければいけないなぁと思うわけである。自分が感じた苦労を後輩たちにはさせたくないんだもの。

 

受験票が届いたはいいが、横浜会場があまりに遠すぎて寝坊確定説

後輩に仕事を任せてみて

年度が変わり、新しく専攻医になった先生方に仕事の8割くらいを任せるようになってから約1か月が経った。病棟管理に関していえば、自分が切り盛りしていた数か月前ほどの安定感はないように見える。が、彼らが1か月前まで初期研修医だったことを差し引いて考えると、かなりうまくマネジメントできているのではとも感じている。実際のところ自分が慌てて手を下さないといけない場面は殆どなかったわけで、急ピッチで進めている世代交代も比較的滑らかに実現できるのではないかと思っている。それどころか、自分から明確な指示を出した場面もこの1か月で数回くらいしかないから、なかなか大したものだ(大抵はふわっとしたヒントを出すだけで間に合っている)。

 

麻婆豆腐を食べたくなると、つい樓外樓に来てしまう

 

時に後輩たちの奇妙な臨床判断を見かけることもある。ただ、それについても当の本人に(エレベーターで一緒した時なんかに)聞いてみると、その判断の根拠となる知識は間違っていないことが多くて、むしろその判断で本当に妥当なんだろうかと悩んでいることが多いような印象を受ける。これはつまり、自分自身の臨床判断に対する自浄作用のようなものが多かれ少なかれあるということだ。そんな時に周りから「あぁせい、こうせい」というのは逆効果なわけで、やはりヒントをほのめかしてハッと気付いてもらうようにした方が上手くいくのではないかと感じている。

 

理論だけが立派で、実践が伴わない様を「机上の空論」という。割と最近、学生さんとランチしている時に「大学で目一杯勉強するのはいいのですが、実臨床では役に立たないという話をよく聞きます。『机上の空論』になるのだとしたら、どう勉強したらいいのか分かりません」みたいな悩みを相談された。確かに、そつなく仕事ができる人をみると優秀な人に見えてしまう気持ちも分かるわけで、そうなると実践重視・理論軽視の姿勢に傾いてしまうのも分からなくはない。だが、自分の答えは(今のところ)こうだ —— 実践重視でもやっていけなくはないが、必ずどこかで『お山の大将』に成り下がる時が来る。同じ仕事だけを一生やり続けるなら実践重視でも別に構わないが、もし世界を目指すのだとしたら理論的なところも勉強していないと、どこかで頭打ちになる。

 

強いていうなら、いま病院総合内科の病棟を切り盛りしてくれている専攻医の先生方は、理論がしっかりとしていて実践が追いついていない「机上の空論」寄りということに一応はカテゴライズされるのかもしれない(もちろん、そう呼ぶほどひどいものではない)。ただ、自分はそれについては全く悲観していないし、むしろ長期目線であれば良い傾向だと思っている。というのも、実践は半年もやっていれば自然に身に着く類のものだからだ。例えば「これくらいの(理論を外れた)無茶はやっても大丈夫」という勘みたいなものはあるけれど、専攻医の最初の段階から「結果オーライ & 実践全振り」の博打に走るのはちょっといただけない。駆け出しの段階では理詰めで一向に構わない —— それを繰り返している中で、だんだんと理論と実践との間に横たわる距離感が掴めてきて、段々と身のこなしもこなれてくるというもの。要は、理論と実践は掛け算の関係なのだ。どちらも軽視してはならない。たとえ「頭でっかち」と周りから蔑まれても、それを恥じて勉強を止めるような愚を犯してはならないのだ。

 

それと、医者をやっていると同年代の同業者が輝いているのを目の当たりにすることも何度もあるかとは思う。それをみて焦ってしまう気持ちも理解はできるのだが、決して惑わされてはいけない。若くして世間から持て囃されている人間というのは、だいたいは偉い先生からの後ろ盾があってこそのもので、実際に話してみると大して中身のない場合が多い。薄っぺらいんだ。だから、焦らなくていい。というか焦るな。淡々と、基本に忠実に、精進し続ければいい。そうして骨太な実力を養っていると、必ず誰かが見つけてくれるだろう。司馬遼太郎も、こんな言葉を残している ——「人は、その才質や技能というほんのわずかな突起物に引きずられて、思わぬ世間歩きをさせられてしまう」。

 

病院総合内科の後輩たちには、是非たくさん勉強してほしいと思っている。勉強した理論を実践にどんどん取り入れてほしい(理論がしっかりしていれば反対はしない)。そして、成功も失敗も、たくさん経験してほしい。成功や失敗に対しては、その都度理論を見直すことで、なぜその結果になったのか、絶えず自らにフィードバックをかけるようにしてほしい。地道にこういったサイクルを繰り返し続けられれば、独学でも十分に上を目指していけるようになるはずだ。そして、そのサイクルを実行しやすい土壌を病院総合内科の中に作っておくことが、残された時間での自分の仕事だと思っている。

 

今週はこの1冊。権力も財力もなければ、弱者の兵法に徹するのみです

忙しいんだか、忙しくないんだか

年度が変わり、病院総合内科の体制が大きく変化した。このことは前々から繰り返しこのブログでも書いてきたことではあるのだが、年度が始まってからGWに差し掛かるまでのこの3週間の変化は、病院総合内科はじまって以来なのかもしれないと感じている。規模的にも、質的にも、だいぶ変わってしまった。これが良い変化なのか、悪い変化なのか、そのあたりは自分にはよく分からない —— 初期・後期研修医の先生方が良いと思えば良い変化なのだろうし、悪いと思えば悪い変化なのだろう。

 

とりあえず、病院総合内科の医師数が大幅に増えた。病院総合内科専属の後期研修医の先生が2人に、COVID-19対策チームの後期研修医の先生が1人兼任、合計すると後期研修医2.5人分くらいのマンパワーになった(ここに自分が加わるので、マックスで3.5人分くらい)。加えて、初期研修医の先生も病院総合内科を指定してローテートしてくれるようになった(これまでは救急・集中治療科研修の一部分として病院総合内科研修が存在していた)。ほんの数か月前まで、自分ひとりか、ふたりくらいで病棟回診していたのに、今となっては5人以上での回診が基本になって、なかなか賑やかだ。少なくとも、以前のような心細さはなくなった気がする。

 

診療科の人数が増えて楽になって、自分は半ば隠居した感じでダラダラと振る舞えると期待していたのだが、全然そうはならなかったのがちょっと残念。というのも、COVID-19対策チームとの連携が入ったことで、もともとは救急・集中治療科から患者さんを受け取ることが多かったところに、COVID-19疑いで実際は他の病気だったという患者さんを受け取る機会が増えたからだ。医師数がみるみるうちに増えたと思ったら、それに劣らず患者数も増えた。今の後期研修医の先生方はみんな優秀だし、非常にモチベーションも高いので助かっているが、さすがに急変の頻度が増えた気がする。急変はどんなに上手く医療していても一定確率で発生してしまうものなので、患者数が増えれば当然のように急変の数も増える —— それだけのことなのだけれど。

 

実は患者層も若干変わってきている。救急・集中治療科から受け取る患者さんの多くが脳血管疾患や心血管疾患で、昨年度までは主にこの領域に携わることが多かったのだが、今年度からはCOVID-19疑いだった患者さん、つまりは発熱患者さんを受け取ることが増えたので、肺炎、腎盂腎炎、不明熱……こういった症例に携わる比率が上昇しているような気がする(自分が感染症を専門にしていてよかったなぁと思う瞬間である)。その一方で、常に敗血症性ショックを生じるリスクを気にしないといけなくなっているという意味では、後期研修医の先生たちにとっての心の負担が増しているのかもしれない。あと、感染症内科から「お手並み拝見」とばかりに(特に不明熱症例あたりで)視線を感じているのだが、気のせいだろうか……。

 

後期研修医の先生が増えて自分が何をやっているのかというと、ひとつは監督業務。自分は失敗こそ成長の糧だと信じて疑っていない人間なので、研修医の先生には思った通りに診療をやってもらって、成功も失敗もしっかり経験してもらう方向にしているのだが、その中で自分はなるべく診療に手を出さないようにしている。「これは取り返しがつかなくなるかもなー」と思ったら手を出すのだが、基本的には一切手出ししない。強いて日常的に手出しする場面があるとすれば、倫理的にデリケートな問題や社会調整の問題など、医学的でない部分に概ね特化するようにしている(後期研修医の序盤ではさすがに荷が重い)。医学的な問題に関しては、手を出す代わりにヒントをぼやいてみたり、文献を共有したりして、なるべく研修医の先生自身に答えを導いてもらうようにしているわけだ。ただやってみて感じたのは、このサポート方法、物凄く難しい。研修医の先生よりも患者さんをしっかり問診・診察していないといけない上に、研修医の心をドキッとさせる核心的なヒント「だけ」を言わないといけないので勉強量も必然的に多くなる(ヒントはたくさん出せば良いというものではない)。最初は慣れなかったが、この緊張感、なかなか悪くないなーと思い始めている。なお、この運営方法は『ティール組織』に書かれている経営手法を元ネタにしているので興味がある方はご参考までにどうぞ。要は、研修医の先生方の責任感や学習能力を信頼し、彼らの自主コントロール性(オートノミー)を最大限に尊重するスタイルをとっているというわけだな。

 

とはいえ、今の自分が全く医学的なことをやっていないかというとそんなこともなく、後期研修医の先生たちが外勤で不在の時にその穴を埋めるのも自分の仕事だ。研修医の先生たちの患者さんを預かった時に注意していることとして、「自分色の医療」はなるべく行わないように気をつけている。つまり、研修医の先生のスタンスをなるべく踏襲する形でやるように細心の注意を払っているわけだ。「自分色の医療をしない」という縛りと「イケてない医療をしない」という縛りを両立するのもなかなか難しくはあるのだが、まぁ、致し方あるまい。ところで、同一曜日に複数の後期研修医の先生の外勤が重なっていると、その曜日だけ自分の仕事量が極端に増えてしまうのだが、この現象はどうにかならないものだろうかねぇ(……と言いつつ、造作もなくこなせてはいるから、構いはしないが)。

 

さて、監督業務と不在分のマンパワーの穴埋め。これらが終わると自分は晴れて暇人になることができる(仕事の対価はお金だけじゃない、暇も立派な報酬だ!)。時間が空いたら、初期研修医の先生に対する教育と、自分自身のやりたい臨床研究に没頭していることが多い。最近、論文化できた臨床研究に、日本のモンドール病症例の観察研究があるのだが、それはまだ校正が終わった段階で公開されていないので、おいおいアナウンスする予定である(つい最近、日本内科学会総会にも演題を出してきたところ)。また、他に手掛けている臨床研究では仮説通りの成果が出てきていて、ちょうどリアルタイムで論文を書いているところである。やっぱり、臨床研究はCOVID-19みたいなトレンドを無理に追うよりも、(役に立たないかもだが)自分がやりたいテーマを見つけてやった方が楽しいなと感じる今日この頃である。

 

そんな感じで、研修医の先生たちが症例と格闘する中で、勝手に閃いて勝手にレベルアップしてガッツポーズしているのを傍から眺めているわけだが、彼らが教訓を一般化して自分の言葉で紡ぎ出す瞬間に立ち会えるのが個人的には何よりも嬉しい。そういう体験を積み重ねてこそ、臨床における勘も少しずつ研ぎ澄まされていくのだ。彼らと一緒に成功も失敗も分かち合い、それを乗り越えていく。そういったプロセスを今後は享受していきたいと思う。

 

守谷「ジェノ」の前菜、何となくおせちっぽい? 実はツッコミどころ満載の老舗

 

牛すね肉の煮込み、激ウマ。流石にランチセットで900円は安すぎると思うの

 

おまけ:むかし診ていた侵襲性髄膜炎感染症の症例が論文になったのでこちらにちょろっと報告。海外の雑誌に軒並み受からなかったのが謎なくらい個人的には価値のある症例だと思っているんだけどなぁ。不満なりッ!

資本主義下のchoosing wisely

産業革命以来、世界は主に資本主義というシステムによって動かされている。正確に定義する自信が全くないのでWikipediaを貼り付けると、資本主義とは「生産手段の私的所有と利益のための運用を基本とする経済システム」とのことで、「私的所有」と「利益」がキーワードになっていることは言うまでもないだろう。ぼくらが仕事に向かうのは、生活の糧となるお金を稼ぐためだ(そうじゃない人もいるだろうが)。もう少し突っ込むと、みんなが自分の利益のために頑張ることで世界が成長し、もちろん頑張った人は豊かになるのだが、そこまで頑張っていない人も成長の恩恵を受けて結果的に豊かになる(トリクルダウン仮説;実際にはそうなっていないが) —— そんな風に利己主義を是認するところが資本主義にはある。

 

資本主義の反対語としては社会主義というのがあって、これは「平等で公正な社会を実現するために国が生産手段を保有し、資源や労働の分配も国が決める経済システム」である。例えば、岸田首相の「成長と分配」というスローガンの前半は資本主義的で、後半は社会主義的ということになるわけだ。もっとも、日本はもともと税金が高く、生活保護受給者の方が最低賃金ラインで働いている人よりもお金を貰っているところを見ると、資本主義の体裁をとった社会主義国家と考えてもよいのかもしれない(このあたりは人によって意見が違うと思う)。一般に、同じ資本主義国家でも、米国は資本主義的、欧州は社会主義的な傾向があると言われている。

 

さりとて、ぼくらは資本主義というシステムの中で生きている。「脱成長」という言葉がブームになるあたり、社会主義的な発想が今後見直されていくことになるとは思うのだが、それでも世界を作る土台が資本主義なので、資本主義に則った行動をとった方が、当面の間は生存に有利なように見える。資本主義に則った行動とは、自己研鑽で新しいスキルを身に着けて労働市場の中で優位を確立していくとか、労働者としてだけでなく経営者としての目線をもって仕事するとか、そういった振る舞いだと個人的には考えている(社会主義だったら正直どっちも要らないよね)。資本主義の中で生じた新自由主義的な考え方は行き過ぎなのではと思っている人も結構な数いるとは思うが(現に環境問題などの外部不経済が生じている)、実際的に大きな流れに逆らうのは難しいのだ。

 

資本主義の中では、売上高や利益の伸びが評価される仕組みになっている。従って、大量に生産して大量に消費することが良しとされるところがある。しかしながら、当然世界の資源は有限なわけで、従って需要も供給もどこかで頭打ちになってしまう。資本主義を続けるためには、需要と供給を無理やりにでも拡大しなければいけないという理屈になる。供給については歯止めの効かない科学の進歩が勝手に拡大し続けてくれる。需要については「なくても死なないけど、あったら便利」というニーズを「生きるためには不可欠」というニーズへと変えていく必要がある。分かりやすい例としては、スマートフォンが挙げられる。スマートフォンが出現した当初は必需品でもなんでもなかったはずなのに、いつの間にか(2015年頃を境に)なくては生活に困る類のものになってしまった。ここまで書くと、「技術が進歩しているのに何故かぼくらは忙しくなっている」という疑問に対する答えも薄々察せられるのではないかと思う。要は、資本主義というのは(世界は有限であるにも関わらず)規模の拡大という呪縛から逃れられない仕組みなのだ —— 泳ぎ出したら止まれないマグロのように。

 

少し話題を変えよう。ぼくの医療現場におけるひとつの理想は、choosing wiselyやstewardshipを通じて無駄な医療を削ってコンパクト化することで、「医者も患者もコメディカルも全員が最小限の苦労で最大限の幸せを手にすることのできる医療現場」を実現することである。短くは、「コンパクトな医療」(compact medicine)と呼んでいる。この意見には時々「そんな考え方があるのか、面白い」みたいなリアクションで賛成してくれる人もいるのだが、基本的にはあまり受け入れられていない考え方だ。圧倒的なマイノリティに属している。とはいえ、なんでこの上手くいきそうな考え方が市民権を得られないんだろうと疑問に思い続けてきた。そんな中でハッとする論文をNew England Journal of Medicineの中に見つけたので紹介したい。要旨をまとめると、資本主義下では医療費を削るというインセンティブが働きづらいため、余計な医療を推し進める方向にどうしてもなりがちで、現行のchoosing wiselyが流行らないのも致し方なしという内容だ。

 

In a capitalist economy oriented toward growth, more has always been more, and newer has always been better. In this context, parsimony is a hard sell. In addition, cognitive biases such as the therapeutic illusion that leads us to overestimate benefits and underestimate harms are present in both doctors and patients.

—— Rourke EJ. N Engl J Med 2022; 386(14):1293-5.

 

なるほど、ぼくにとっての理想の医療は時代に思い切り逆行しているからマイノリティになってしまっているのかと納得した次第である。だけど、「コンパクトな医療」が成長を否定するものでは決してないことを理解してほしい。というのも、根拠のない医療行為を削る(≒ 根拠のある医療に集中する)ためには、猛勉強が必要なのだ。慣習を打ち破って、要らないものに対して「要らない」と明言して推し進めるためには、文献を大量に読み込んだ上で議論を制する必要がある。それに、「コンパクトな医療」の対義語は「高火力の医療」になると思うのだが、本当に必要な「高火力の医療」に絞るのであれば、「コンパクトな医療」も同時に実現可能だ。「必要なものは必要で、不要なものは不要」—— 難しい話では全然なくて、ただそれだけのことなのだ。ぼくが問題視しているのは、メリットのない医療行為が「デメリットがない」という理由だけで漫然と行われている現実なのである。

 

さて、ここまで色々と思っていることを書いたわけだが、「お前は資本主義と社会主義のどっちの味方なのかよく分からん」と言われてしまいそうだ。自分自身ではどちらでもないと思っていて(資本主義の中で生まれ育っているので資本主義寄りの人間ではあるか)、ただ「良いものは良いし、悪いものは悪いとハッキリ言うだけの人間」という自己評価だ。どのみち、ひとつの考え方に拘泥して極端に走ってしまうのはいただけない。資本主義も社会主義も欠点だらけなんだから、もう自分なりの主義でいいんじゃないか。大切なのは、とにかく勉強し続けて、色々な考え方を身に着けていき、世界を自分なりに解釈して自己変革し続けていくことだと思っている。

 

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いずれも違う路線だが興味深く読み応えのある本だった

シロスタゾール

病院総合内科で患者さんの治療方針を決める際は、なるべく海外文献をもとにディスカッションすることを心掛けていますが、そうしていると日本で古くから行われているけども海外では基本的にやらないようなプラクティスが目に付くようになります。そのうちのひとつに、シロスタゾール(プレタール®)という薬剤があるのですが、これは日本で多く使われている薬で、海外ではあんまり使わないようです。抗血小板薬といって、脳梗塞の患者さんで脳梗塞をもう一度起こさないようにとか、そういう目的で使うことが多いですね。俗に「血をサラサラにする薬」とも呼ばれています(あんまり良い言い方ではないですが、もっと分かりやすくてキャッチーな言い方が思い浮かばないのが辛いところです)。

 

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つくば駅前も桜が咲いています!

 

それで、シロスタゾールは役割的にはアスピリンと似ているのですが、副作用が結構独特です。心拍数が上がって動悸を起こしたり、更年期障害にも似たのぼせるような感覚(ホットフラッシュ)を引き起こしたりすることが知られています。こういった副作用ゆえに、一般的にはシロスタゾールよりもアスピリンの方が使いやすいのですが、それでもシロスタゾールを敢えて使う場面があるのが面白いところです。

 

例えば、シロスタゾールで動悸する副作用を逆手にとって、洞不全症候群(ざっくり言えば、心臓の動きが遅くなる病気)に使うことがあります。心房細動で時々頻脈発作を起こしてしまう患者さんが病院総合内科には結構入院するのですが、そういった患者さんに対してはβ遮断薬といって、心拍数を抑える薬をよく使っています。ところが、その薬で心拍数を抑え込みすぎると、今度は心拍数が低くなりすぎてふらついたり失神したりと、危ないことが起こってしまうわけです(徐脈頻脈症候群)。そういった患者さんに対しては、シロスタゾールを少量(50 mg/日)から使って対応しています。だいたい、効果は半日から1日くらいで出てくる印象で、患者さんにもよるのですが、心拍数 40回/分の人であれば60回/分くらいまで回復するイメージがあります。

 

洞不全症候群の患者さんを集めてシロスタゾールを使うとどうなるのか、科学的にディスカッションしようという動きもあります。洞不全症候群はペースメーカーを植え込む必要のある病気ですが、体に機械を入れるのに抵抗のある患者さんは決して少なくありません。そういった患者さんに対してシロスタゾールを使うと、ペースメーカーを植え込むのを回避できるのではないか、というわけです。


他に最近知って驚いたのは、シロスタゾールが脳梗塞後の誤嚥性肺炎予防になるかもしれないという話です。とある患者さんが徐脈(心拍数が低い)でもないのにシロスタゾールを使っていて、なんでだろうと思ってそれまでの主治医に問い合わせたら、「誤嚥性肺炎のガイドラインに載っているよ!」とのことでした。確かに、簡単に調べてみると『脳卒中治療ガイドライン2009』(※旧版)の「嚥下性肺炎の予防」のところに書いてありました。実際にその裏付けになる臨床研究も存在するようです(後ろ向き研究といって、凄く質の高い研究というわけではないです)。ただ、そのメカニズムは正直よく分かりません。

 

これまで紹介した文献が日本人の手によるものばかりであるという点には注意が必要です。海外で研究したら意外と有用性を証明できるかもしれない反面、日本でしか結果が出ていないところにある種の胡散臭さを感じるところもあります。さらに、シロスタゾールは心疾患を抱えがちな高齢患者さんだと禁忌に抵触してしまうことも少なくなく、これまで行われたシロスタゾール関連の臨床研究の中にも倫理的に問題があるのではと感じるような研究が幾つかあります。そういった問題点はあるものの、シロスタゾール、なかなかマニアックで興味深い薬だと思います。

 

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つくば市竹園のパン屋さん、軽食気分の時に如何でしょう?

 

はたらく心得

年度はじめということで、Twitterを眺めていると「社会人の心得」を投稿している方が結構多いですね。便乗して自分も書いてみました。

  • 午後17時には仕事を切り上げる。切り上げられないなら、切り上げられるよう仕事を効率化する、あるいはシステムを変える。仕事そのものが間違っている可能性も一度は考える。
  • 仕事や待遇に不満があれば、一度は周囲に相談して解決策を議論する。それで状況を変えられない場合は清々しく辞めて他の場所に移る。
  • 業務は心身が冴えわたった状態で行う。最大限の集中があれば、ほんの30分で3時間分の仕事を終えられる。
  • 分からないことがあったら積極的にカンニングする。堂々とカンニングできない人は、いつまで経っても向上しない。
  • メリットのあることだけを行う。メリットが一切ないことは、たとえデメリットがなくても、やらない。
  • 「ホウレンソウ」は令和の世でも大切だが、その型稽古(プレゼンテーションの練習)をしっかりと。
  • 「あの」「その」「えーっと」などの口癖を撲滅する。大舞台では、無駄口の数で実力不足が露呈する。
  • 帰宅後のアフター・ファイブを充実させる。仕事以外のスキル・人脈を得るための余暇を十分に作る。1日の労力をルーチン業務に使い果たすことなく、その20%以上を確実に未来への投資に回す。
  • 何事も競争して勝つのではなく、不戦勝を目指す。戦術で勝つのではなく、戦略で勝つことを考える。戦略の失敗を戦術では取り戻せないが、戦術の失敗を戦略でカバーするのは割と簡単。
  • 失敗で落ち込む暇があれば代わりに教訓化する。当時の情報のみでシミュレーションし直し、決断の分岐点を洗い出せるまで繰り返す。

新しい診療科の形を再考してみる

「総合診療科」や「総合内科」という部門が何をやっているのかは、医師以外に対してはなかなか説明しがたいところだなと思います。最近「ドクターG」などの番組を通じて、専門科を横断して難しい病気を診断するところなんだと世間一般から思われているようなのですが、実際のところ、その活躍は診断学に留まっておらず、分野横断的な治療も担っていますし、在宅医療も担っていますし、場合によってはワクチンなどの予防医学も守備範囲です。その中で、筑波大学附属病院 病院総合内科は「ホスピタリスト」といって、分野横断的に入院患者の診療を担っている部門になるわけですが、やはり何をやっているのか説明しても一般の方々に伝わりづらい印象があります。

 

何をやっているのかを説明しがたいのであれば、何をやっていないのかを説明した上で「それ以外をやっています!」と言ってしまうのが分かりやすいかもしれません。そういう観点から説明すると、病院総合内科がやっているのは「各専門科に振り分けられなかった患者さんを診るところ」と言えば良さそうです。しかし、これでも不十分なのがまた面白くて、例えば肺炎は呼吸器内科かと思いきや、実は病院総合内科。パーキンソン病神経内科疾患)、大動脈解離(血管外科疾患)、前立腺肥大症(泌尿器科疾患)……このあたりもなんやかんやで病院総合内科で診てしまっていることが多いです。本当は各専門科に適切に患者さんが割り振られるべきなのでしょうが、何故かそうならないのが大学病院のクセ……なのです。

 

こういった奇妙な経緯もあって、病院総合内科を「各専門科に振り分けられなかった患者さんを診るところ」と言い切るのも、"間違ってはいないが正しくもない" ということになります。結局のところ、病院総合内科に関しては「何をやっているのか」で説明するよりも、「何をやっても間違っているとは言われない場所」と説明してしまった方が良いのかもしれません。こうすれば、病院総合内科が担っている仕事全般を矛盾なく説明できそうです。「だったら、病院総合内科は究極的には不要なんじゃないか」と言われてしまいそうですが、正直なところを言えば、その意見も間違ってはいません。仮に病院総合内科がなくなったと仮定して、各診療科が(「不便だなぁ」と感じつつも)根性で分野横断的な部分をカバーしてしまえば、筑波大学附属病院における医療がストップすることもないかと思います。

 

ところで最近、『ふしぎな総合商社』(講談社プラスアルファ新書)という面白い本を読みました。総合商社というのは、三菱商事とか、三井物産とか、伊藤忠みたいな企業のことを指すのですが、これらの企業が何をやっているのかと言われると正直よく分かりません。実のところ、これらの企業に勤めている方々ですら、何をやっているのかよく分からないらしいです。総合商社の仕事と言えば資源調達が有名ですが、不動産投資とかコンビニ経営とか、仕事の幅は相当広いです。でも、その仕事の内容をひとつひとつ見ていると、それぞれもっと特化した企業というのがあるわけですよ。だから、商業商社は何でも屋、だけど専門的な内容にも程々に手を出しているということになるわけです。なんだか、病院総合内科と凄く似ていませんか? さっき総合内科不要論みたいなことをチラッと書きましたが、総合商社についても「商社不要論」が叫ばれていた時代があったみたいです。やっぱり似ていますよね。だけど、総合商社は(他業界が没落した)バブル崩壊以降も増収増益を重ねており、「もしかしたらGAFAMに太刀打ちできるのでは?」という期待もされているところが凄い。病院総合内科のような地味な診療科でも、立ち回り次第ではそういったスーパープレイができてしまうのではと直感するわけです。

 

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どちらもサクッと読めて面白い本でした。軽いといえば軽い

 

さきほど病院総合内科を「何をやっても間違っているとは言われない場所」と表現しましたが、総合商社の仕事ぶりを見ていると、必ずしも臨床だけに留まった何でも屋である必要もないように感じます。例えば、病院総合内科は、医療の範囲でありさえすれば、割とどんな研究をやっても許されてしまいます。循環器内科が組織規模で大腸癌の研究をしていたら多分怒られてしまうと思うのですが、病院総合内科であれば別に何を研究しても違和感がありません(国際的にモンドール病の研究を進められているのもそういった背景事情があります)。また、教育についてもかなり有利な面があります。発熱を訴える患者さんは、必ずしも感染症科の守備範囲とは言えません。感染症を除外して「当科ではございません」というところの先まで関わることになるので、近視眼的にならずにトレーニングできると思います。さらに(ここからはまだ時代が追いついていませんが)、病院総合内科が全診療科の内容を概ね把握しうるという意味では、経営学の部分を強化することで病院経営を医療従事者の立場から担うこともできてしまうのではと思います。医療資源の分配なんかは総合力勝負ですから。そういう意味では、病院総合内科の主たる役割を、医療の三大業務である臨床・研究・教育に留めておく必要は必ずしもないでしょう。

 

さて、病院総合内科の役割というテーマでマクロな視点からの考えを綴ってきましたが、今度は内部でどう運営するかというミクロな視点での考えも綴ってみたいです。病院総合内科はマクロでは総合商社に似ているのですが、2017年創業と筑波大学附属病院の中でも極めて若い部門という意味ではベンチャー企業に似ているとも言えます(某ベンチャー企業の社長さんとチャットしていると、職場の雰囲気がちょっと似ているのかもなぁと感じることがあります)。従って、病院総合内科は診療体制という面で、他の老舗診療科と一線を画した経営ができるのではないかと考えることがあります。

 

『ビジョナリーカンパニーZERO』(日経BP)以外で最近読んだ経営学の書籍に『ティール組織』(英治出版)というのがあるのですが、ここに載っているような革新的な経営手法をトライできる診療科は、病院総合内科のように極めて新しい診療科だけなのではと思います。具体的には、意思決定をヒエラルキーベースで行わない。つまり、現場の個々のメンバーが集団の方針を決定して、それを経営陣が助言してサポートするというもの。逆に、経営陣は変なプライドに固執せず、支持的にサーバント・リーダーシップに徹するわけです。これ、組織ピラミッドを暗黙の了解とした既存の経営手法とは真逆のやり方なのですが、やはり現場で働く人間が所属集団の意思決定を担った方がモチベーションは上がるものです。幸いにして「今の」病院総合内科には既得権益者が(多分)誰もいないので、筑波大学附属病院の中では病院総合内科が唯一「ティール組織」になれるポテンシャルを持っていると言えます(あくまで、労働力を欲する他診療科に権利を強奪されなければの話ですが)。

 

来年度は病院総合内科に新レジデントが2名入り、加えて他診療科からもレジデントがコンスタントにローテートしてくれるようになるのですが、これを機に病院総合内科は「ティール組織」への道を模索しても良いのではと考えます。レジデントが診療科の意思決定に直接携われる唯一の診療科と聞くと、なんだか胸が躍りませんか? それで、病院総合内科を、教授が絶対権力者として君臨する他診療科と差別化することで、若手にその魅力をアピールしていく。人が集まれば、色々と面白い事業が無理なく定時内でできるようになって、その活気でもっともっと人が集まる(以下、素晴らしき好循環)。恐らく、病院総合内科が生き残る道としてはこの方針が賢明なんじゃないかと思います。そうした場合、既存のメンバーの役割は、助言役、サポート役、あるいは "Devil's advocate" に落ち着くのでしょう。

 

この数年で規模が拡大したとはいえ、病院総合内科はまだ存在意義不明で規模も小さい「崖っぷち診療科」です。しかし、これまで議論してきた通り、アイデアを振り絞っていくことで、病院総合内科にしかできない仕事を数多く生み出せるだけのポテンシャルがあるのもまた事実。後輩たちには是非、誰もやっていないような仕事にも挑戦していってほしいなと感じています。逆に後輩たちには(総合内科の宿命とはいえ)くれぐれも安直に「イエス」と請け負って他診療科の奴隷に落ちぶれないように注意してほしいですね……社会的使命を意識しながらも理不尽に対しては明確に「ノー!」と言うこと、それが診療科を守り抜く上では大切です。それで、失敗のリカバリーとか資金とか外交に関しては病院総合内科の古参メンバーでサポートする、と。他勢力によるM&Aを回避しつつもそういう形でやっていけば、病院総合内科が「唯一無二の診療科」へと更なる飛躍を遂げる日もそう遠くないと思います。

 

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普段から面白い秋葉原駅が、いつも以上に面白いことになっていました

 

今週の読書

  • 広井良典『ポスト資本主義』(岩波新書)は、教養のカタマリとでも呼ぶべき重厚な内容で、現代社会を長大な歴史の中に位置づけて、どう未来を作っていくかを論じている(結構硬派なので、ゆっくり読むべき)。特に面白いと思ったのは、「豊かさ」の定義を「貨幣」から「余暇」や「福祉」にも拡張して「『貨幣』での成長から『余暇』や『福祉』での成長へとシフトしていくのは如何か?」と提案しているくだりで、確かに供給過剰・需要不足になっていく世界の潮流を踏まえるとしたら、妥当と感じられる内容だった。例えば、「国民の祝日倍増計画」なんかは、合理的だし楽しそうだしで、非常に良いアイデアだと思う(恐らくドイツでの一般市民の生活がモデルなんじゃないかな)。
  • 井手英策『幸福の増税論』(岩波新書)は、「貨幣のフェアな再分配とは何か?」を筆者なりに追究した内容。生活保護受給者に対する日本国民の視線はマコトに厳しいわけだが、その背景には「働かざる者、食うべからず」という古くからの価値観がある。要は「義務を果たさずに権利ばかり貪るとは何事か!」というわけだ。そこで、著者が提案しているのが、貧富関係なく国民全員が義務と権利の両方を果たす仕組み —— つまり、全国民が一律に収入のX%の税金を払って、それをもとに全国民が平等に利用できるインフラを整備して還元するという仕組みである。確かに、これならフェアかもしれない。社会主義アレルギーの自分がこの本を頷きながら読めてしまったことにはちょっと驚いている。
  • 上記2冊は、自分とは全然違う価値観ではあるのだが、新しい価値観のインストールという意味で非常に勉強になった。今週は他にも色々な本を読んだが、色々な人が日本の将来を憂え、全力で思考してアイデアを捻り出していることを知ることができ、少しだけ心が明るくなった気がする。これだけ素敵な人がたくさんいるのに、なぜかそれを上手く活かせないのが日本の弱点だ。実に勿体ない。

 

今週の読書は岩波新書縛りで、普段と違う考え方に触れました