つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

まったく、今どきの若者は……

筑波大学から東京医科大学に異動する頃から、筑波大学などの意欲ある学生さんを集めて、論文の読み方やLetter to the Editorの執筆方法を定期的に教えることにしている。学生さんに気に入った研究論文を適当に持ってきてもらって、その論文の問題点や周辺事項などに関して、Zoomでワイワイ議論しているわけだ。だいたい2~3週間に1回くらいの頻度でやっている。Letter to the Editorの執筆も極めて順調で、いままでAm J MedやEur J Intern Medに論文を掲載する成果を挙げている。

 

後輩との情報交換で、天龍寿司。海鮮まぶしは贅沢だったなぁ

 

成果を挙げれば挙げるほど風当たりが強くなるのが現代日本の特徴で、最近はこの会のガバナンスを強化すべく各方面に根回しているような有様だ(苦笑)。言い換えると、そこまでする必要があるくらいには、いまの学生さんが優秀だということ。優秀というか、色々とちゃんと考えていると言った方が適切なのかもしれないかな。いずれにしても、優秀な人物にはそれに見合う舞台が必要だ。実際に、いままで出版されたLetter to the Editorのアイデアの大部分が学生さんの発案であり、自分はというと、その表現をマイルドに無理のないものにしたりとか、アイデアに行き詰っている時にヒントを出したりとか、それくらいしかやっていない。

 

学生さんに臨床医学の知識を授けることが多々あるのだが、逆に学生さんから臨床医学の知識を教えてもらうことがあるのにも驚いている。例えば、駆出率の維持された心不全、いわゆるHFpEFに対する薬物療法には確立されたものがなかったわけだが、最近になってSGLT-2阻害薬が有用だというエビデンスを学生さんたちから教わった。「HFpEFじゃなくてHFrEFの間違いでしょ!?」って学生さんたちに言ったら、「いいえ。間違いなくHFpEFです」というお返事とともに、欧州循環器学会の演題があったことを教えてもらってしまった。確かに、心不全入院や死亡率減少に寄与している……。学生さんたちの情報網も侮れないなと思った次第である。

 

 

なにが凄いかって、このお話を教えてもらったちょうど翌日に、N Engl J Medから同趣旨のダパグリフロジンの論文が出ているところなんだな(欧州循環器学会の演題とは別のもの)。論文が出るよりも早く情報をキャッチしている人には敵わないなんて常々思っているわけだが、同じ気持ちを学生さんに抱こうなんざ、思ってもいなかったわい。この調子で是非、勉強を続けてほしいなぁと、頼もしく思うわけである。

 

日本の未来に対して自分は悲観とか絶望を既に通り越していて、常に心の中では鬱やニヒリズムと戦っている。だけど、こういった優秀な学生さんが足元で育っているのもまた事実。日本が今後生き残っていくには、彼らから搾り取っていくのではなく、彼らの特技に注目してそれが伸び伸びと生かされるような環境を整備していくべきなんじゃないか。そして、同じことを考えている指導医クラスも少数ながら、現代日本の臨床現場にはいる。このあたりを上手く生かせさえすれば、日本もまだ滅んでいないと言えるのではないか。「失われた30年」を自分たちの世代が「失われた40年、50年」にしないためにも、若者を大切にしていきたい。

生命科学から人生を捉える

つくば市立中央図書館の「返却本コーナー」を結構気に入っている。予約待ちの本がそこに並ぶことは絶対にありえないのだが、人気の高い本が並んでいることが多いからだ。図書館に行くとつい、自分の読みたいジャンルの本棚のところに向かってしまうことが多いものだが、新しい出会いを求める際には「返却本コーナー」に行って、背表紙だけで直感的に「これ面白そう!」と感じた本を手に取ってみると良いことがあるかもしれない。

 

そんなふうにして出会ったのが、高橋祥子先生の書かれた『生命科学的思考』(NewsPicksパブリッシング)である。一見すると、文系から見ても理系から見ても何となく難解そうな雰囲気を醸し出しているこの一冊、正直な感想をいうと最高レベルの名著だと思った。ここ数年で自分が読んだ本の中では『現代経済学の直観的方法』(講談社)に匹敵する読み応えだったわけだ。

 

この本は知名度こそ低いのだが、2020年代のマスト・バイだと確信した!

 

この本の趣旨は、生命科学の知見を通じて人生というものが何なのかを捉えなおしてみるというものだ。先日のブログで「自分にとっての医療行為は、人生を知るための手段であり、メガネのようなものだ」みたいなことを書いたような気がするが、その「医療行為」の部分を「生命科学」に置き換えたような感じだ。従って、この本の全体的な雰囲気としては哲学書に近いものになっている。

 

例えば、ぼくら人間は宇宙規模で考えるとチリ屑のような存在だ。それでもどういうわけか地球上に存在しているわけだが、この事実をどう捉えるか? —— なに、絶望することはない。人類には「主観」という武器があるのだ(弱点じゃない、武器だ)。ぼくら人間の面白いところは、自身の存在を宇宙のチリ屑と知っていながらも、そんな宇宙において何らかの不満を抱いてもいることだ。宇宙はどうでも良い反面、どうでも良くもないのである。不満があるということは、不満が解消された世界を同時に想像しているということでもあり、つまりは理想というものがあるのだ。そして、人類は不満と理想のギャップを想像することができる。この「未来差分」を認識し、その差分を埋めるために課題を設定し、解決に向けて走り出してみる。これが「情熱」に動かされるということなのであろう。

 

「幸福とは、理性によって人間が潜在能力を開花させたときに実現できるものである」という旨のアリストテレスの言葉が本書では紹介されているが、著者は幸福と快楽をかなり厳格に区別しているのが分かる。幸福とは、長期的視点に立って自己変革することで得られるもの。快楽とは、物質などによって一時的に人間が感じられる生体反応のこと。そんなふうに明確に描き分けているのが分かるのだが、両者の違いを混同しては幸福への到達も遠いものになってしまうだろう。このくだりを読んでいると、吉田松陰の「百年一瞬耳、君子勿素餐」(百年の時は一瞬に過ぎない。君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように)という言葉を思い出す(本書では触れられていない)。「目先の快楽は一時しのぎと知れ」というわけである。

 

他に面白いと思ったのが、「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス)をもった人類がどこまで利他的になれるかというくだりである。物凄くあっさりとまとめてしまうが、そもそもなぜ人類は利他という考え方を持っているのかを考える必要がある。人類は、他の動物に比べると道具なしではか弱い存在であり、それゆえに社会を作る必要があった。「人間」という言葉には「間」が使われているが、複数人で集まらない限り「間」なんてものはできないわけで、ここに人類の本質的な要素がある。それで、社会は人類にとって自身を利するものではあるのだが、社会は利他的でないと形成することができない。要するに、利己的であることと利他的であることは全く矛盾しないと、そういう議論が展開されているわけだ。

 

そんな感じで、この本では人生にまつわる諸問題が、生命科学のフロントラインで活躍する起業家の目線から考察されている。知的活動が多少なりとも含まれる現場で働いていて、自分自身の存在意義の問題などでニヒリズムに悩まされるような人にはご一読をお勧めしたい。この本は、間違いなく買い。

たとえ「良医」になれずとも

聖路加のベテランの先生の書かれた、患者さんとの心温まる交流の物語集『内科医の私と患者さんの物語』(医学書院)を読んだ。がん末期の患者さんが家族の結婚式に参加したいということで、聖路加国際病院の中で模擬結婚式を挙げた話などを読んでいると、自分は患者さんに寄り添え切れていないのだろうなぁと感じる。そして、自分には同じことをするほどの “余力” のようなものがない。なんというか、自分の中に内在する「愛」の総量が足りない —— そんなふうに感じてしまうのだ。患者さんとの温かい物語集を読んでいると、なんだか眩しい気持ちになる。同時に、「自分は本質的なところで『良医』になれない」というどす黒い諦念も襲い掛かってくるわけだ。

 

この写真を見て、自分が本質的なところで「良医」になれないことを実感する……

 

それでも、他ならぬ自分だからこそ世に貢献できることがあるはずだ……!「良医」になれないなりにも、感染症診療のノウハウなどを「愛」のキャパシティに余裕のある同僚や後進に伝えていって、実力の伴う「愛」を広めていこう —— そんなふうに開き直るようにしている。そんなことを言うと、無責任を攻める声もあるわけだが、これは自分なりに自分を守るひとつのやり方でもある。許していただけると嬉しい。

 

医療現場に身を置いている中で、そんな無力感を日々感じ苛まれているわけだが、1か月半を経てようやく今の新しい職場にも慣れてきたように思う。同時進行でYouTuberになってみたり、科研費の応募に挑戦してみたり(たぶん落ちるけど)と、多くのチャレンジを始めているところだが、それらも下手なりに何とかやっていけそうな気がしている(8割以上が周囲の温かい応援のお陰)。前の職場の3倍くらい忙しくなったような気がしていて、タイムスケジュールにもこれまでの数倍は意識的になったが、不思議と疲労感は以前と変わらない。たぶん、忙しくなった分の仕事の内容が自分の適性みたいなものと合致しているのだろう。そして、漫然と過ごしている時間がゼロになった。

 

鬱にならないようにするためには、自分の持ち場でベストを尽くすしかないのだと改めて思う。もちろん、「良医」のステレオタイプは厳然としたものとして存在する。が、その「良医」に縛りつけられてしまうと、この業界では容易に鬱に陥ってしまう。患者さんやご家族の抱える感情の渦に呑み込まれて抜け出せなくなることもしょっちゅうあるし、物理的・体力的に限界を越えてしまうことだって容易に起こる。「医者というのはこれくらい働くものだ」という固定観念のある中でも、医者ひとりひとりというのは間違いなく異なった人間なのだ。無理はすまい、されどベストは尽くせ。自分自身が世のため人のために貢献できる最良の方法を考え抜いて、そこに全力で向かっていけ —— それが自分の中で死んだ「良医」への弔い方だと思っている。そして、自分は同僚に対してもそういったスタンスで接していきたいと願っているのである。

抗MRSA薬のお値段

先日のDr.'s Prime Academiaで、抗MRSA薬のお値段のお話をさせていただいたのですが、バンコマイシンやダプトマイシンのお値段を失念しておりましたので簡単に補足させていただきます。腎機能が正常の患者さん(体重 60 kg)の場合の各薬剤の投与方法は、以下のようになります。

バンコマイシン 1 g, 12時間毎 点滴静注 (2 g/日)
ダプトマイシン 350~600 mg, 24時間毎 点滴静注 (350~600 mg/日)
リネゾリド 600 mg, 12時間毎 点滴静注・内服 (1,200 mg/日)

 

それで、これらの薬剤の薬価をみていくと、

バンコマイシン 0.5 g/瓶 681~1,022円
ダプトマイシン 350 mg/瓶 13,710円
リネゾリド 600 mg/袋 4,963~11,402円
リネゾリド 600 mg/錠 4,970~8,083円

 

ということになります。従って、1日あたりに換算すると

バンコマイシン 2,724~4,088円
ダプトマイシン 13,710~27,420円
リネゾリド(静注) 9,926~22,804円
リネゾリド(内服) 9,940~16,166円

 

結局、どれもお安くないなぁと思いつつも、バンコマイシンは比較的安いという結論です。Dr.'s Prime Academiaでのレクチャーでバンコマイシンもダプトマイシンも、いずれも1日1万円くらいと説明していたかもしれませんが、バンコマイシンはその半分くらいというのが正しいようです(失礼いたしました!)。

 

そう考えると、抗MRSA薬の中でもバンコマイシンが頻用される理由は、「歴史が長い」「コストが安い」の2点にあるという説明で良さそうです。同時に、リネゾリドに関しては後発品の開発が進んでいる印象があり、コストダウンが図られているのもよく分かりました。薬価ってコロコロ変わるので、知識を定期的にアップデートしないといけないですね(反省)。

 

それとダプトマイシンの地味に厄介なところは、1瓶あたり350 mgなので、体重によっては必要瓶数が中途半端になってしまって勿体ない使い方を強いられがちなところでしょうか。時々、このことで相談を受けることがあるのですが、「瓶数のことは致し方なしッ! 気にせずに使ってください」と回答するようにしています。(救える場合の)「命あっての物種」という状況下では、コストを気にしちゃいけないと思うのです。

 

コストといえば、激安の宇奈ととはどう鰻を仕入れているんだろう……?

茨城のレンコン農家

茨城県は日本有数の米どころであり、その生産量(重さ)は平成30年の農林水産省のデータによると都道府県全体で8位にあたるようだ。いつも食べている茨城県コシヒカリ、これはなかなか美味いもので、自分も色々な場所に旅したり下宿したりしているものの、米に関してはなかなか舌が肥えてしまってうるさくなってしまっている。

 

しかし、茨城県の農産物といえば、何といってもレンコンである。「先を見通すことができる」という縁起物ということもあって、他県ではなかなか日常の食材として食べる機会の少ないレンコンなのだが、茨城県では比較的容易に手に入ることもあって、レンコンハンバーグ(ハンバーグを2枚のレンコンで挟んで焼く)がよく食卓に並んでいる。

 

それくらい身近なレンコンなのだが、レンコン農家の生活がどうなっているのかというのは茨城県民の間でもあんまり知られていないのではないだろうか。レンコン畑に一度足をとられて沈みかけた経験がある人なら同意いただけると思うのだが、レンコン畑はとっても深くて、従って、レンコンを収穫するためには胸のあたりまで泥につからないといけない。そうすると、特に夏場なんかは熱が逃げていかないので本当に肉体的な負担の大きな仕事になるようだ。

 

しかも、レンコンがどこにあるのかなんて、泥の上からじゃ推測するのも難しいわけで、レンコン農家の方はホースからのジェット水流を畑の底の部分にあてることでレンコンを “掘り起こして” 上がってきた部分を柄の短い農具で刈って収穫するやり方でレンコンを採取するのだそうだ。想像するだけでもその苦労のほどが伺えるが、気候の問題などもあるので想像をはるかに上回る大変さだと思っていなければなるまい。

 

時に日本の農業は全体的に苦境に陥っているようだ。プロセスを詳細に説明すると長くなるので割愛するが、低価格路線での競争原理が導入されてしまった結果、利潤が出にくい構造になってしまっている。特に物流などの価格上昇のあおりをうけてしまうと、ますますこの苦境が助長される。さらに、高品質の農作物ほど鳥獣が好んで害を起こすという問題もあって、高品質路線を採ったとしてもコストがかかり過ぎて利潤を出しにくい構造になってしまっている。高かろうが、安かろうが、いばらの道……それが日本の農業らしい。

 

そんな「レンコン農家」という無理ゲーをいかに攻略するか、挑戦したのが『1本5000円のレンコンがバカ売れする理由』(新潮新書)の著者 野口 憲一さんである。かすみがうら市のレンコン農家に生まれ、民俗学者としてアカデミズムの世界に身を置きつつも、いかにしてレンコンを売れる形にもっていけるか……その可能性をアカデミズムならではの視点も活用しながら奮闘されている御方である。

 

ここ2週間でこの3冊。充実のひと時だった!

 

正直なところ、この本にはノウハウなんて一切書かれていない。分かったのは、(1)足を使って人脈を広げまくっておく、(2)チャンスらしきものがやってきたら多少胡散臭くても飛び乗るの2点が低知名度からの飛躍に有用であること、そして伝統を意識的に引き継いだ形にすることでブランディングを行っていく戦略が役に立つかもしれないこと。そういった事柄をこの本からは読み取った。この著者はマスメディアを駆使して野口農園の知名度を上げているのだが、マスメディアとコネクションを作るまでの過程も相当大変だったのではと推測する。

 

こういった斬新な取り組みを行うと、よそからの羨望や嫉妬で足を引っ張られることも少なくないようだ。とりわけ、この著者の場合は家族が敵に回ってしまっているエピソードが何度も語られていて、メンタル面でも厳しいものがあったのではないかと思う。自分の場合はYouTuberとしての活動を家族も応援してくれているので、有難い限りだ。

 

いずれにしても、レンコン農家の苦境が痛いほど伝わってくる一冊だった。特に食べ慣れている茨城県民がレンコンを食べるようにしていかないと、レンコンもなかなか売れないのではという気がするのだが、茨城県内の食事処を回ってみてもレンコンを売りにしているお店がなかなか見当たらないのが寂しいところだ。どなたか、美味しいレンコンをリーズナブルに食べられる場所をご存じであれば、ご教授願いたいものだ。

"きれいな" 臨床のコミュニケーション

最近、YouTuberとしての活動もはじめてみたのだが、実に不思議な気分である。というのも、チャンネル登録者数は案の定、2桁を少し越えたところで止まっているし、アップロードした動画の再生回数も3桁に届かない。しかし、色々なYouTuberの書籍を読んでいると「最初は視聴者がつかないもの」と何度も強調して書かれていたし、「とにかく続けることが大事」みたいだとシツコイくらいに聞き及んでいるものだから、最初の立ち上がりが悪いのも致し方なしかなくらいに軽く考えているわけだ。というか、YouTuber以外にもやっている活動が多岐にわたっている関係で、YouTuberとしての伸びが悪くてもそれを嘆いている余裕がない。そんなわけで、気長にやっていこうと思う。

 

動画編集についても、最初はAviUtlのクセの強さや面倒くささに圧倒されっぱなしだったのだが、やっているうちにだんだん慣れてきた。こういうクセの強い技術系のやつは、毎日触れて日常生活の一部にしてしまうのが良いのではないかと感じている。実際に、10分程度の動画で字幕を入れるのでなければ、1時間くらいで作ることができるようになってきた。初めての時は1分の動画に3時間くらいかかっていたので、急峻な学習曲線が描かれているわけだ。ただし、字幕を入れるのだけは本当に面倒くさくて、AviUtlで断続的に字幕を入れる場合はタイミング調整が非常にしんどい。かといって、VrewのようにAIが勝手に字幕を入れてくれるシステムを使っても、自分が動画で口にする言葉の大半が専門用語である関係上、正しく拾ってくれる頻度がどうしても少ない。AIが字幕を代行してくれても、かなり綿密に内容を確認しないといけないので、これまた骨の折れる作業なのである。

 

そんな苦悩と戦いながらも、動画作成自体はなかなか楽しい作業だと思っているので、今後とも続けていきたいと考えているわけである。続けていれば上達するかというと、必ずしもそうとは言い切れず、むしろ上手くいっているYouTuberの手法を見て盗む過程が今後必要になってくるのではないかと思う。同じYouTuberの動画を自分が見るにしても、きっとYouTuberデビュー前の自分とデビュー後の自分とでは見え方がだいぶ変わってくるに違いない。そういった世界の見え方の変化も楽しんでいければいいなと感じている。

 

ところで、読書習慣も相変わらず継続していて、週に1冊は職場の図書館で医学書を借りて味読するするようにしている。医学書といっても、ゴリゴリにプラクティスを書いた本はあんまり読んでいなくて、むしろ医療倫理の本とか、ティーチングの本とか、そういったノンテクニカル・スキル系の本を読むことが多い。なんというか、自分自身で医療行為を行うのも良いと思うのだが、後輩たちをみていると彼らの方が優秀なんじゃないかと思う瞬間を何度か経験していて、この半年ばかりは彼らのモチベーションや能力を伸ばせるような先輩になりたいという気持ちが高まっているのだ。どうすれば後輩たちと "お互いに幸せな" 助け合いの関係を築き上げることができるかというのも、自分の中で大きな課題となっている。後輩たちのやりやすい先輩になると同時に、後輩たちには助けてもらいたい。そんなふうに考えているのだ。

 

それで、よく後輩たちと雑談もしているのだが、救急外来はいわゆる社会の窓であり、雑談の話題に事欠くことがない。目の前の患者さんを医学的に理想的な状態で治す方法とは別に、どこにその患者さんの幸せってあるんだろうか……みたいな話をよくしている。議論という類のものでは全くなくて、答えのない問題についてとりあえずボールを投げて一緒に考えて、でもやっぱり答えが出なくて、ただ考えたという充実感が残るような……そんな感じのひと時だ(完全に自己満足である反面、まったくの無意味とも思わない)。それと関連して偶然手に取ったのが、國頭英夫先生の『「治る」ってどういうことですか』(医学書院)という一冊だ。

 

「里見清一」としても知られる國頭先生の本がつまらぬわけがない

 

がんの告知をはじめとする医療従事者と患者さんとのコミュニケーションには、確かに方法論が存在する。しかし、その方法論だけで混沌とした臨床現場をやっていけるかというと、全くそんなことはない。自分のように医師6年目と経験が浅くても、嫌というほどよく分かる。患者さん本人は知りたがっているけれども、家族は本人に病気を教えるななんて場面は何度でも経験する。このような板ばさみにどのように対応すればよいのか。認知症のある患者さんの発言はそのまま受け取らずにキーパーソンの意見を受け入れるようにと言われるが、認知症があるからといってそれを患者さん本人の意向ではないと断じてしまって本当によいのだろうか。患者さんに「大丈夫です」と説明したいけれども100%大丈夫なんて医療はないわけで、そんな時に「99%大丈夫です」と説明するのってどうなんだろうか。そういった医療現場における悩ましい問題が多数取り上げられている。

 

「患者さんの発言を傾聴すればよい」「患者さんに寄り添えばよい」……臨床教育の場では難問題に対してそういった "答え" が提示されているが、当然、そんなきれいに片づけられる問題では決してあり得ない。患者さんも様々であり、それこそ色々な場面で使う "妥当な言い回し" とか "無難な言い回し" というのはあるけれども、ひとつの正解なんてものを安直に追い求めてはいけないのだ。結局のところ、医療従事者は患者さんと真剣に向き合うしかない。当たり障りのない言葉を弄してサラッとしたきれいな医療面接を演出するのではなく、しっかりと患者さんに時間を割くことが大切なのだ。忙しいのが医療従事者の性質だが、決して忙しくなり過ぎてはいけない。患者さんを人間として扱い続けるためにも、決して多忙による焦燥感に身を焦がしてはいけない。自分の信念をより一層強めた一冊だった。

スタチンによる横紋筋融解症

Lancetを読んでいたら、プライマリケア領域に少なからず関わってきそうなメタアナリシス論文を見かけました。スタチン使用に伴う横紋筋融解症(筋肉痛や筋力低下など、定義はかなり広そう)の発生率に関するメタアナリシスで、ここに含まれている研究の条件としては、参加者数が1,000名以上で、スタチン同士またはスタチン対プラセボの二重盲検比較試験というのが規定されています。

 

Cholesterol Treatment Trialists' Collaboration. Lancet 2022:S0140-6736(22)01545-8.

 

結果としては、プラセボ群と比べてスタチン使用群は1年後の横紋筋融解症のincidence rate ratioが1.07になっており、15名中1名が「スタチンによる」横紋筋融解症を起こすという話になりそうです。ただ、面白いのは2年後以降に関してはincidence rate ratioが低下していて、スタチン群とプラセボ群とで差がなくなっているように見えます。つまり、スタチンを使い始めてから最初の1年間が問題なければ、それ以降も安全に継続使用できる可能性が高いということになりそうです。まぁ、とはいっても、15名に1名とは……臨床実感よりも随分と多い気がいたします(自分の体感的には30名に1名くらい。スタチンの用量が控えめだから……?)。あと、意外とプラセボ効果が大きいんですよね —— CKの動いていない "横紋筋融解症" も結構含まれてしまっているのかしら。

 

この研究では、スタチン同士の比較も載せているのですが、やはりスタチン強化療法群では他スタチン群よりも横紋筋融解症のincidence rate ratioが上昇するみたいです。もっとも、この研究におけるスタチン強化療法群というのがアトルバスタチン 40-80 mg/dayとかロスバスタチン 20-40 mg/dayみたいに、物凄い高用量なんですけどね……。自分がアトルバスタチンを処方する時は5-10 mg/dayですし、ロスバスタチンにしても2.5-5 mg/dayですから。海外では随分と高用量でやっているのだなぁと改めて実感した次第です。なお、無理矢理に感染症領域と関連づけるならダプトマイシンでしょうか、ダプトマイシンは横紋筋融解症との関連が知られているのでCKをフォローしながら使うのが良いかと思います。