つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

エビデンス天狗

昔からずっと続いていることではないかとも思うのだが、「ベテラン vs ルーキー」の対立構造がなかなか目に余る。「働き方改革」が言われる前は(割とリベラル寄りとされる総合診療界隈であっても)ベテラン医師が若手医師をカンファレンスでボコボコにやっつける光景が頻繁に見られていた。それが最近では、異様ともいえるほどに若手医師を優遇しようという風潮がある。若手が活躍できる場所が無批判に "善" と見なされているような気がしていて、ちょっと気持ち悪い。

 

筑波大学附属病院の近くにある「ZEYO」のカレーうどんで体が温まった!

 

白状すると、我輩も若手医師を優遇しようという最近の風潮の恩恵を大いに享受している立場だ。ただ、この風潮が果たして適切かといわれると少々疑問にも感じる。結局のところ、ベテラン中心の昔にしても、ルーキー中心の今にしても、ベテランかルーキーのどちらかに活躍が集中してしまっているという点で歪みを感じてしまうのだ。「ベテラン vs ルーキー」の対立構造がいつまでたっても解消されず、振り子のように極端に反復し、中庸——つまりはベテランとルーキーの協調がいつまで経っても実現しない。結果、「老害」とか「青二才」といった互いの反発心と無関心が職場を支配してしまいがちなようにも見受けられるわけだ。

 

そもそもなぜ日本の総合診療界隈で若手医師が優遇されやすくなったのか。もちろん、「働き方改革」をはじめとする国策もあるだろうし、少子化のせいで若手医師を確保すべく迎合しようという思惑もあるのだろう。それと同時に我輩が感じるのが、エビデンスに基づいた医療(EBM)が普及した影響である。つまり、それまで経験の積み重ねによる熟練の技とされてきたものが、エビデンスの形で言語化された。Up to Date🄬を開けば、日々論文にかじりついていなくてもエビデンスを簡単に入手できてしまうわけだ。いまのベテラン医師が若かった頃よりも、今の若手医師は情報面で遥かに恵まれている。

 

エビデンスを勉強していれば、一度も経験したことのない疾患でも簡単に診断できてしまうことがある。例えば、我輩はOsler病を見たことが一度もなかったが、外来で鉄欠乏性貧血の患者さんに遭遇した時に、赤みがかった顔をみてちゃんとそれと診断することができてしまったわけだ。ただ、そういった時に「エビデンスを身につけていれば経験なしでも診断できる」と天狗になるのではなく、「先人が経験をエビデンスにしてくれていたお陰で診断できた」と感謝の念を抱いた方がよいのではと我輩としては感じる。歴史をリスペクトせよということだ。

 

ところで、我輩は色々なところでレクチャーの指導をしている。要は、「教師の教師」みたいなややこしいことをしていて、レクチャーに熱心な色々な先生方の講義動画を見て、求めに応じて助言を送るのである。そこで気がついたことなのだが、若手医師のレクチャーは、エビデンスこそ多く詰め込まれているが、つまらないことが多い。ベテラン医師のレクチャーは、エビデンス的にどうなのか疑問符がつくこともあるにはあるが、面白いことが多い(ただし、製薬会社主催のものを除く)。もちろん、例外的に天才的な後輩を見つけることもあるし、何をしたいのかよく分からんベテラン医師のレクチャーもあるのだが、概ねこの傾向である。

 

なぜ若手医師のレクチャーがつまらなくて、ベテラン医師のレクチャーが面白いのかをしばらく考えていた。大学以来の大親友とも二晩くらいディスカッションしてみた。結論としては、若手医師が伝達しているのは知識で、ベテラン医師が伝達しているのは知恵だからという話に落ち着いた(ここで「知識」とか「知恵」の定義は、DIKWモデルを参照のこと)。

 

医療を行うには、知識が必要不可欠である。しかし、知識で医療はできない。むしろ、知識を持った状態で医療現場に臨んだ結果、散々に失敗し、知識と実践とが必ずしも一致しないことを知る。知識と実践とのギャップがどこで生じているのかをこれでもかというほどに考察し、克服に向けて試行錯誤する。このプロセスを繰り返している中で知識と実践とがだんだんと合致してきて、知識が知恵へと昇華する。ここまで経験して、それを言語化できた医師がレクチャーを面白くできるのではないかと思う。にも関わらず、最近では若手医師が知識(エビデンス)を綺麗に陳列しただけのレクチャーが各種メディアに出てきてチヤホヤされる。調子に乗って先輩にマウンティングする若手医師も出てくる。本当にこれでいいのか。

 

そんなわけで我輩、才気煥発に過ぎる同世代医師に対して「少しくらいは長幼の序を意識して、先輩医師の経験談にも耳を傾けた方がよいのでは」と苦言を呈しておきたい。良いレクチャーをするには、若くて知識が多けりゃいいってものでもないんだ。実際のところ、中国の春秋戦国時代にも似たような逸話がある。趙という国に趙奢という武将がいたのだが、その息子の趙括が頭の良い人であったらしい。趙括は幼少の頃から兵法を学んでいて、父と兵法論を議論すると毎度言い負かしていたという。要するに、知識が物凄くあったということだ。ところが、実戦経験がなく、修羅場で血路を開いたこともなく、あっけなく秦軍に負けてしまって趙の兵士 数十万人が捕虜になるという大失態を犯した。この逸話は「紙上に兵を談ず」という言葉でよく知られる。実践を伴わない机上の空論は役に立たないということだ。なお、机上の空論自体は経験から生まれた知識なので、知識としては正しいという点でタチが悪い――局所でみると正しいんだけど、全体でみると間違っていることが多い(適切なコンテクストで知識を使えていない)。

 

うだうだと持論を垂れてきた我輩も、かくのごとき「エビデンス天狗」にならないよう気を付けて精進しなければなるまいと気を引き締めておきたい。師匠が我輩を定期的に叱ってくれるのも、「エビデンス天狗」にならないよう叩いてくれているのかなと最近になって感じるようになったのだ。

社会学が最近面白い

ここ最近は異様な忙しさである。院内で病棟業務をあんまりやらずに救急外来に特化しているとはいえ、常に何かをやっている気がしていて、なかなか余暇を作り出せないものだ。それでも9月末には妻と伊東温泉に1泊2日で滞在することができたし、この間の週末には母親を連れて美術展を鑑賞する時間をとることができた。まことに余暇は貴重である。

 

救急外来を回しながら、1日2,000字は何かの原稿を執筆する日々である。基本的には感染症診療の原稿を書いているのだが、連載が第80回を越えたあたりから内容の難易度が一気に上がっていて(第30回あたりからの難易度とは比較にならない!)、今まで以上に知識を熟成させないと書けなくなってきた。お陰様で、こちらの知識量も爆発的に増えているような気はする。ちなみに、知識を収集していると割とどうでもいいトリビアも身についてくるのだが、そういったものは動画にしてYouTubeに流すようにしている。そんな日々を過ごしているので、困ったことに医者でありながら医療に少々疲れ気味なところがあるのである。

 

割と近所にあるステーキの「花まさ」、気軽に入れてすごく気に入った!

 

そんな吾輩の息抜きは、医療以外のことを学ぶことである。こんなことを言うと師匠からは必ず怒られてしまうのだが、将来の夢のひとつとして、引きこもって貪るように本を読んでいたいという願望がある。高等遊民みたいなものだ。実際に今でも暇さえあればつくば市立中央図書館か土浦市立図書館のどちらかには足を運ぶようにしている。図書館で本を読みながらうたた寝するのが休日の日課なのである。それに、いまは国際認証MBAを取得するべく大学院で経営学を学ぶ立場でもある。もっとも、カリキュラムの1/3くらいを終え、どうも経営学には自分の学びたかったことがあんまり含まれていないのではと薄々察しはじめているところではあるが……。

 

吾輩は経営学に、周りの人も安心して暮らせるコミュニティづくりの知恵を期待していたのだが、どうにも実際の経営学は、売上と利益をアウトカムとしてひたすらに追求する学問のようなのである(学問と呼ぶには雑多すぎるかも)。そこにいくと、リーダーシップも売上と利益の手段に過ぎないわけで、戦国武将や江戸大名の逸話集が好きな吾輩の嗜好ともズレが生じる。それに、経営学で学ぶノウハウは日本の文化とか価値観とは合わないのではとも感じることが多く、このことは何度かブログでも指摘している通りである(それでも、そんな経営学を上手くアレンジして各々の現場に応用する先輩方もいて、彼らの講義を聴きに行くと大いに勉強になる)。

 

吾輩は自分自身と自分の周囲が幸せになる方法を知りたいだけなのであるが、残念ながら成長至上主義の経営学にその答えはなさそうだ。ただ、経営学の講義を聞いている中で、ちょっと引っ掛かる言葉があった。曰く、経営学とは経済学・心理学・社会学のうち経営に役立つエッセンスを抽出したものとのこと。このうち、経済学は医師3年目から4年目にかけてみっちりと勉強したから、大雑把な内容は把握している。その一方で、心理学や社会学はそこまでちゃんと勉強したことがないことに思い至る。

 

そこでこの数か月は図書館で社会学の本を借りて読むようになったのだが、歴史や哲学ほどではないにしても、経営学の本よりは面白いことに気が付いてしまうわけである。社会学では、世間、国家、家族、友人、ジェンダーなどの雑多なテーマが対象となる。吾輩の生きるこの世界がどう成立しているのかを考察する学問であり(やはり学問と呼ぶには雑多かも)、この世の歪みとか生きづらさがどこから来ているのかを様々な論客が議論する場でもある。そういった議論に触れながら、自分の周りの人間関係を振り返って内省するのも悪くないものだ。なお、吾輩の社会学的な問題意識の中で比較的大きいものとして、「どうすれば『家族』を取り戻せるか?」というものがある ーー 偶然にも、これは医療現場で総合診療をやっていて割と問題になりやすいテーマでもあるのだよな。

 

なにはともあれ、貪るように読書して知識を身につけつつ、時々「朋の遠方より来るあり」みたいな付き合いをする。そんな少々老けた感じの生き方が理想であり、憧れる。しかし、それだと世のため人のためになっていると言えるのだろうかという葛藤も生じてくるわけで、この葛藤をどう自分自身の中で消化していこうかというのが吾輩の悩みの種である。まぁ、華々しい活躍は先輩・同期・後輩たちに任せて、吾輩は晩成型のつもりでのんびり細長くやっていこうかしら、くらいに思っているわけだが。

買えない味と、買えない本

吾輩はケチである。肉を買うにもスーパーを何軒も梯子する。財布を開くのも苦痛な吾輩は、1円たりとも損したくない。だから、豚肉100 gあたりの値段に対してもかなりシビアなのである。自炊にかかるお金が200~300円くらいに落ち着くとガッツポーズして意気揚々と自宅に帰る。たらふく食べた後、外食だったら1,000円はかかるよなと回想しては満足感にしばし浸っている。そういうわけで、吾輩はすごくスーパーケチなのである。

 

だが、そんな吾輩にも欲はある。喫茶店の前を通ると美味しそうなラテの写真が飾られている。スーパーでカートを押しているとアイスクリームが視界に入る。駅前に行けば屋台の匂いに視線を持っていかれる。現代社会はあまりに誘惑が多すぎる。それでも吾輩は決して買わない。頭の中で味を想像し、幻想のラテやらアイスやらを食べるのである。味を完璧に想像できて、頭の中で食事を完了すると、欲望を断つことができる。刹那の満足に400円も払う気にはなれないと我に返るのである。かくして吾輩はいつも自身との戦いに勝ち続ける。しょうもないといえばしょうもないのだが、ケチ根性を極めることを心から楽しんでいるわけである。

 

外食することはある。ただ、外食するにはルールがある。なるべく頭の中で味を再現しきれない料理に限るというルールである(努力目標)。例えば、神田の「川中島」の雉焼重や神保町の「ミロンガ・ヌオーバ」のコーヒー。水道橋の「かつ吉」も良い。真に美味しいものは、味付けが単純でなく、その日の気分などによって微妙な変化をみせる。想像だけでは味を細部まで再現できず、足を運ぶたびに何度でも口を楽しませてくれる。こういった一筋縄ではいかない料理なら、多少お金を払ってでも食べる価値がある。自宅から近いところだと、つくば駅前の「樓外樓」のじゃがいもと牛肉の煮込みが気に入った。この老舗は日本人の味覚とズレており、味が強過ぎて辟易することも多いのだが、この味覚のズレがテコとなってか、稀に会心の一作を生み出す。ここのじゃがいもと牛肉の煮込みには何度食べても奇妙なバランスを感じており、「この店はカレーに挑戦した方が良いのでは?」と感じるのである。ちなみにつくば市のカレーであれば、吾輩は「ポステン」の欧風カレーに一票を入れたい。最近少し値上がりしたが、甘受する。

 

じゃがいもと牛肉の煮込みは、昼限定の隠しメニューにして「樓外樓」最高傑作

 

吾輩のケチ根性は食事に留まらない。読書が最大の趣味だが、その割に本すら滅多に買わないのである。なにしろ、本を1冊買うと1,000円くらいする。これは日給の10%くらいだ。「五公五民」の補正をかけると、場合によっては日給の20%くらいになってしまうかもしれない。だから、迂闊に本を買う気になれないのである。しかし、知識に飢える吾輩にとって、本は貪るように読みたいものである。そこで発想を転換する。吾輩の財布の中にある「五民」ではなく、国や自治体に捧げた「五公」の方ならいくらでもお金を払うことができるではないか。そこで図書館に行くという発想に至るのである。絶対に解約できないタイプのサブスクは使い倒すに限る。図書館に入り浸れば、2日に1冊、年に200冊くらい本を読んでも実質的に無料なのである。

 

吾輩が本を買うことはもちろんあるのだが、そこにもルールのようなものがある。それは、読んで理解しきれないけれども、読み続けることで何かを学べそうな本に限るというものである。すぐに思いつくのは、オルテガの『大衆の反逆』やイリッチの『脱学校の社会』。木田元の『反哲学入門』や長沼伸一郎の『現代経済学の直観的方法』も、頻繁に読み返すので手元に置いている。座右の書として講談社学術文庫版の『言志四録』。中野孝次のファンなので、『清貧の思想』、『自分らしく生きる』、『生き方の美学』。専門書だと、チャンドラ・セカールの『移植・免疫不全の感染症』や『傷寒論解説』、『金匱要略講話』。あとは『常用字解』や『三国志正史』、『中国名詩集』、『名将言行録』といった、執筆業に必要な資料をいくつか。こういった書籍は、一周読むだけでは理解が追いつかない。何度も繰り返し読み、そのたびに新しい発見があるのである。図書館で借りてそれで終わりとならないだけの魅力がある。逆に、書店の店頭に並んでいるようなキャッチーな新書は基本的に買わないようにしていて、図書館にリクエストして読むようにしている。そういった大衆的な本も読んだら読んだで面白い……が、大抵は一周読めば十分なのだ。買うには値しない。

 

本を読むために喫茶店に入る人もいるとは思うが、吾輩はよほど集中したい時以外は喫茶店には入らない(もし喫茶店に入ったら、仕事を終えるまで絶対に出ないと決めている)。その点、つくば市は非常に恵まれていて、静かな環境で読書したければ、自宅か図書館ですれば良いし、少しだけ騒がしいところで読書したければ、つくば駅前の広場ですれば良い。つくば市は頻繁にビアフェスを行っていて、駅前がいつも活気に満ち溢れているのだ。少し寂しい気持ちになったら、ほろ酔い気分の喧噪の中でベンチに座って読書するのも悪くないものである。そう考えると、わざわざ喫茶店に入ってお金を払うこともあるまいて。

 

結局、吾輩は消費と投資を厳密に区別しているということになるのかもしれない。その場限りのものにはお金を払えないが、長く楽しめる付き合いにはお金を払うことができる。消費したくなると心の中で我慢のカウンターが起こる。少しひもじい気持ちにもなるのだけれども、母親から散々聞かされた「武士は食わねど高楊枝」という言葉がひもじさを忽ち高揚に変えてしまうのである。この高揚に任せて想像力を発揮し、一気に心を満足させる。いやはや、我ながらとんでもないケチ根性に苦笑いするほかない。

タテ社会の人間関係 単一社会の理論

いろいろな会社とやり取りしたり、既得権益者と衝突したりしていると、だんだんと社会に対する興味が広がってくるものである。社会構造を通じて日本というのがどういう国かというのを考える機会が増えてくるわけである。基本的に自分は日本には期待しておらず、「失われた30年」が今後「失われた40年」とか「失われた50年」になる方向に賭けてしまっているわけだが、それでも日本的な何かにソリューションがあるのではないかという希望を捨てきれないでいるところもある。

 

日本がダメな理由としても、まだふたつの仮説から絞りきれていないところがある。つまり、日本が本質的にダメなのか、それとも日本を西洋の尺度で評価するからダメに見えるのかというふたつの考えのどちらが妥当なのかがどうにも定まらないのである。トヨタや五大商社の凄まじい働きをみていると、日本が根本的にダメと断言するのも難しい。恐らくは両方の要素が混ざっているのが現状なのだろうが、その比率というのもまだまだよく分からない。

 

日本を西洋の尺度で評価するからダメに見えるのではという視点をもう少し深めたいと思って、中根 千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)を手に取ってみた。日本の人間関係やリーダーシップはしばしば西洋の尺度に則って論じられがちだが、本当にそれでよいのだろうか、何か見落としている暗黙の了解のようなものがないだろうかと気になったわけである。もっとも、他には経営に関する論文を書く際に「日本と欧米は社会構造上、同列に論じることはできない」というフレーズを使うだろうから、その引用にという意図もあるわけだが……。

 

 

さて、こちらの書籍での議論をみていると、どうにも日本社会は不思議な社会らしい。例えば、「うちの▲▲が……」とか「よそ者」といった言葉は日本から出るとあまり出てこないものらしい。要するに、自分の家の者か、他家の者かという意識が際立って強いものになっている。名刺交換の際にだってこの手の特徴が現れる。つまり、日本人は名刺交換の際に相手の所属している会社の名前を強く意識する。相手がどういう職務に従事しているのかではなく、どこの会社にいるのかが気になってしょうがないのである。逆に、欧米だと相手がエンジニアだとか営業だとか、そういったところに注意が向きやすいのだそうで。

 

それで、著者によると、集団分析は「場」と「資格」に注目して行うことができるとのことである。なるほど、日本は「場」が重視される社会であると。逆に「資格」が重視される社会の代表がインドらしく、カースト制と職業の結びつきの強固さをみるにも、この分析は妥当なのかもしれない。そして、こういった重視する要素の違いが、社会構造にも反映される。すなわち、日本社会は同じ「場」に所属するメンバーが結びつく「タテ社会」であり、インド社会は同じ「資格」を持つメンバーが結びつく「ヨコ社会」であるといった具合だ。ただ、著者は「ヨコ社会」として英国紳士のクラブを例にとって説明をしているので、ここからはそれで説明した方がよさそうである。

 

中根 千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)より

 

「タテ社会」に加入するためには、社会の中にいる誰かとコネを作り、その人の紹介によって加入するというプロセスがとられることが多い。「▲▲さんたっての願いであれば、まぁ、入会を許してやるか」というわけである。ところが、「ヨコ社会」に加入するためには、社会の構成員全員の承諾が必要になりやすいという点が対照的である。要するに、「タテ社会」は新参者に寛容であり、「ヨコ社会」は排他的なのである。ならば「タテ社会」の方がチャレンジャーに有利かというとそうでもない。なぜなら、「タテ社会」に加入すると、最初のポジションは末端であることが決まっていることが多いからである。一方で、「ヨコ社会」に加入した場合は、他のメンバーと対等な立場から始められることが多いようである。吾輩自身の経験でいけば、5年ほど前に入った感染症系のサロンが「タテ社会」で、最近入った総合診療系のサロンが「ヨコ社会」なのかなぁと感じている。

 

リーダーシップも「タテ社会」と「ヨコ社会」で異なる。「タテ社会」の秩序が構成員の階層構造によって維持されている一方で、「ヨコ社会」の秩序はルールによって維持されている。従って、「タテ社会」で何らかの理由でリーダーがいなくなると、誰が後継者になるのかなどで混乱が生じやすい。一方の「ヨコ社会」の場合は、リーダーがいなくなっても、次のリーダーがルールで決まっているので速やかにリカバリーすることができる。リーダーに求められる能力も「タテ社会」と「ヨコ社会」とで異なっていて、「タテ社会」では人を束ねて秩序を維持することが求められる反面、「ヨコ社会」では個人の実務能力が問われやすいところがある。

 

「ヨコ社会」ではルールでの結びつきが本質的だという議論があったが、「タテ社会」で結びつきを構成するものとしてはエモーショナルな要素が大きいという議論もあった。確かに、親分とか子分という言葉をみていると、なかなかにエモーショナルではある。義侠心とか浪花節とか……。そういうわけで、「タテ」の日本社会にとって理想的なリーダーとは、人間社会に対する理解力とか包容力を持った存在のことであり、歴史人物でいえばナポレオンよりも大石内蔵助が適しているという話になる。親分が優れた能力をもつ子分を人格的にひきつけ、いかにうまく集団を統合し、その全能力を発揮させるかが重要なのである。

 

吾輩は実は経営学の中にあるリーダーシップの議論(例えば、Golemanのリーダーシップスタイル)があんまり好きではないのだが、その理由もはっきりしてきた。結局、エモーショナルなリーダーシップのあり方が好きなので、西洋で発達した経営学とは相性が悪いということなのだろう。そう考えると、吾輩も少なからず日本的な人間なのだなぁと思わずにはいられないのである。

 

さて、まとめてみるとしましょっか。

「タテ社会」vs.「ヨコ社会」

References

Nakane, C. (1970). Japanese society (Vol. 74). Univ of California Press.

Nakane, C. (2021). Kinship and economic organisation in rural Japan. Routledge.

教育者の育成(FD)備忘録

教育者の育成のエッセンス

 

はじめに

 2023年8月26日から8月27日にかけて第27回日本病院総合診療医学会学術総会が開催されていたのだが、その中に「教育講演13:教育者の育成(FD)」というタイトルで藤倉 輝道先生(日本医科大学 医学教育センター)による講義があった。これがなかなか興味深く、ちょうど自分がいま学んでいる "Strategic Development" とも通じるものがあったので、内容を補足しながら備忘録的にまとめてみた。というのも、今後どこかで医療現場の経営に関する論文を書く機会があるのではと薄々予感しており、その際に引用する or 復習する機会があるだろうなと考えたわけである。

 

まさか吾輩が教育理論に興味を持つことになろうとは。。

 

Faculty Developmentとは

 教育者の育成(Faculty Development:FD)とは、教員の能力開発を指し、一般的に学生や研修医を指導する立場の人間の育成を目指す。FDを計画する上では、「理論的背景」(成人学習理論や経験学習理論など)、「方略」(小グループ学習やインストラクショナルデザインなど)、「カリキュラム作成と評価」の3つを押さえておくことが望ましい。FDにおけるラーニングコミュニティ(Learning Community)の側面にも注目し、互いに学びあう関係性づくりにも配慮し、その場から即興的な学びを引き出すファシリテーターの役割も求められる。

 

医学を学ぶ上で目指すべき学習者像

 成人の学習者として、主体的学習者、協同的学習者、省察的実践家、メタ認知といった要素を兼ねそろえている必要がある。ところが、実際の教育現場ではペタゴジー(子どもの教育学)が押しつけられがちである。ペタゴジーには、「学習は依存的」、「学習者の経験は未熟ゆえ価値が少ない」、「教育の基本技法は伝達的方法」(繰り返し教える)、「教育とは整備された教育内容をこなして獲得するプロセス」、「獲得される教育内容はもう少し後になって役に立つ」、「学習を方向づけるのは教科中心」といった特徴が挙げられる。一方のアンドラジー(大人の教育学)では、「学習者の自己主導性の増大」、「学習資源としての経験の蓄積」、「教育の基本技法は経験的手法」、「学習者は自らの『知への欲求』を言い出し、教育者は支援者」、「カリキュラムは日常への応用へと組み立てられ、学習者のレディネスに沿って順序立てられる」、「得たものは今日に続く明日のためにある」、「学習の方向づけは問題解決中心」といった特徴が重視される。要するに、子どもを教える感覚で成人学習の機会を提供すると、的外れな教育となり失敗する。

 

ペタゴジー vs. アンドラジー(無断転載禁止)

 

成人学習理論(Malcom Knowles)

 Malcom Knowlesは、成人学習の特徴を以下のように規定した。
1.自己概念が確立しており、自分がどのような人間か、置かれている立場は如何なるものかイメージできており、与えられるのみの学習方略では飽きるという特徴がある。つまり、成人学習者は教育者から一定独立して学習することを好むということである。
2.過去の経験を位置づけすることができ、新しい事象と出会った時には過去の経験をリソースとして、類似した経験を対比して参照することができる。
3.学習のレディネスが確立している。つまり、社会人としての役割があり、それを遂行しようという自覚があるので、それに伴って学習を行う準備が整っている状態にあるという特徴がある(この部分はインストラクショナルデザインとも関連している)。
4.学習の志向性があり、将来のための知識を蓄積するよりかは、差し迫った場面のために役立つ知識を獲得する学習への志向性がある。つまり、切実な問題や関心を解決するスタイルの学習でなければ、長続きもしない。
5.学習への動機づけを、外からの要因よりも心の内から湧き上がる要因から得ているところがある。これができるようになりたい、こうなりたいという明確な将来像に影響する目標が学習の動機となるわけである。

 

経験学習理論(David A. Kolb)

 経験学習理論は歴史が長く、例えばKurt Lewinの変革モデル、Cark Rogersのカウンセリング、John Deweyの問題基盤型学習、Jean Piagetの発達心理学、Lev Vygotskyの発達の最近接領域などが有名である。主に心理学領域からの知見が多いわけである。そして、その集大成がKolbの経験学習理論である。Kolbの経験学習サイクルは、「経験」(feeling)、「省察」(watching)、「学び」(thinking)、「試行」(doing)のループから成る。実際に現場で経験し、観察結果を振り返りながら受容し、経験から一般則を導くか既存の一般則の適用方法を考え、そして学んだ一般則を小規模あるいは安全な状況で使ってみるというループである。このループを繰り返すわけであるが、これら4つの要素にも個人個人で得意な個所が異なってくるため、それに応じて学習スタイルを選択していくとよいかもしれない。具体的には、「経験」が強ければactivist、「省察」が強ければreflector、「学び」が強ければtheorist、「試行」が強ければpragmatistと考えられ、それぞれに適した勉強の方法があるわけである。

 

経験学習理論の概要(無断転載禁止)

 

 他の分類としては、「経験」と「省察」が得意であれば「発散型」(メディア関係者タイプ)、「省察」と「学び」が得意であれば「同化型」(法律家などの学者タイプ)、「学び」と「試行」が得意であれば「収束型」(エンジニアタイプ)、「試行」と「経験」が得意であれば「適応型」(マーケティングタイプ、政治家タイプ)というものもある。もちろん、まれではあるが、すべての要素に強く、学ぶことそのものが好きでしょうがないバランス型の人間もいる。なお、学習者の学習スタイルによって適した教育者のスタンスがある点も特筆すべきである。具体的には、「発散型」に対してはfacilitator(理解を示す)が、「同化型」に対してはexpert(講義する)が、「収束型」に対してはevaluator(評価して方向づける)が、「適応型」に対してはcoach(一緒にやってフィードバックする)が適していることが多い。可能であれば、集団の研修システムの中にそれぞれのタイプの指導者がいることが好ましい。

 

インストラクショナルデザイン(Robert M. Gagné)

 インストラクションとは、学習者の “学修” を支援するための活動すべてを指している。内的処理を支援するために設計された外的存在の集合体であり、teaching(教える)というのはそのほんの一部に過ぎない。また、インストラクショナルデザイン(instructional design)とは、教育活動の効果と効率と魅力を高めるための手法を集大成したモデルや研究分野、またはそれを応用して学習支援環境を実現するプロセスと定義される。1974年頃から欧米では教育工学の中心的概念としてインストラクショナルデザインが用いられており、ベースには教育学に加えて心理学の知見が生かされている。さらに、2000年頃にeラーニングが普及しはじめた頃も、その開発基盤となる学問として注目された。例えば、eラーニングコンテンツを作る際には、(1)出口たる学習目標と(2)入口たる学習者を明確にし、それをもとに(3)構造を作り、(4)方略(情報提示 + アクティビティ + 評価)や(5)学習環境(メディアとサポート体制)をデザインしていくことになる。さらに具体的にいえば、eラーニングは、プレテスト(入口)、情報提示、演習、ディスカッション、ポストテスト(出口)、宿題で構成されることが多い。

 インストラクショナルデザインの中で重要な概念としては、Gagné の9教授事象を押さえておきたい。具体的には、導入あるいはレディネスの確立として(1)注意を獲得する、(2)学習目標を知らせる、(3)前提条件を思い出させる、情報提示として(4)新しい情報を提示する、(5)身につけ方のガイダンスを行う、学習活動として(6)練習をさせる、(7)フィードバックを与える、まとめとして(8)学習の成果を評価する、(9)保持と転移を高めるといった事象で構成される(これらの事象は、前述のeラーニングの構成にもある程度生かされている)。9つの事象は、必ずしもこの順序で提示しなければならないわけではないし、すべての事象を採り入れる必要もない。しかし、学習の最終段階で「意味的符号化」(入ってきた情報が学習者の中でひとつの命題の形へと変換されるプロセス)がなされ、さらにそれが実践で繰り返し使われないと、知識をなかなか保持することができない点には注意が必要である。なお、注意喚起に関しては、John M. KellerのARCSモデルも参考になるだろう。これはAttention(面白そうだ)、Relevance(関係ありそうだ)、Confidence(学べそうだ)、Satisfaction(メリットがありそうだ)という条件が揃うことで学ぶ意欲が喚起されるというモデルである。

 

Kirkpatricの研修評価

 学習者の評価としてはKirkpatricモデルが有名である。評価のレベル1としては、学習者の「反応」、つまり満足度として5段階アンケートなどが該当し、ここまでに留まる教育システムが多い。レベル2としては学習者の「学習」、つまりテストの成績が該当し、ここまで行う教育システムもそれなりにある。しかし、大切なのはここから先である。具体的には、レベル3の学習者の「行動」で、これはフォローアップインタビューを行うことが望ましいだろう。さらに上位のレベル4として学習者の「業績」が挙げられ、これは生産性などの数値評価が含まれる。ここまで実行している教育システムはほとんどないだろう。願わくはレベル1~2に留まらず、レベル3~4の学習評価を取り入れることが、教育システムの改善を重ねる上で好ましいと考えられる。

 

Kirkpatricの研修評価(無断転載禁止)

 

出典

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Kirkpatrick, D., & Kirkpatrick, J. (2006). Evaluating training programs: The four levels. Berrett-Koehler Publishers.

「改革」という言葉に思うこと

筑波大学を離れて1年以上経ったが、いまだに筑波大学の後輩たちが自分のところを訪れ、近況を教えてくれたり、現場での悩み事を打ち明けたりしてくれていて、筑波大学との縁が切れていないことを幸せに思うことが多い。最近は数か月に1~2回ばかり食事に誘ってくれる後輩たちが増えたものだから、1~2週間に1回は誰かと食べに行っているような状態だ。かつてはメンターに恵まれていることを自慢してやまなかった吾輩も、最近は後輩の自慢をできるようになって誇らしい。もっとも、吾輩自身の実績はというと、先輩方や後輩よりも見劣りするところがあるから、少々気にしてはいるのだが。まぁ、「トンビが鷹を産む」とか「藍より青し」という諺もあることだし、それはそれでよかろう。

 

ソーキそばをつくば市内で食べられるのは幸せだー

 

後輩たちからは、筑波大学に戻って色々と「改革」してほしいという声を(人による程度の差こそあれ)聞くことが増えてきた。ただ、吾輩は(現在の職場でクビにされたり、心身を壊したりしない限りは)筑波大学に戻る予定は当面ない。いまの場所で習得すべきことがたくさんあるからだ。仮にいま筑波大学に戻るとしても、何かを「改革」する気はさらさらない。まず、吾輩は凡人である。メンターや後輩たちは当代一流の天才か秀才が勢揃いしているが、吾輩自身にそこまでの実力はない。残念ながら「挟み撃ちの原理」は成り立たないということになる。才能だけでなく体力もミジンコ並みで、内心では9時17時でまともに働けている人を尊敬している。そういうわけで、少なくとも吾輩単独では「改革」なるものはできない。加えて、吾輩は30歳である。年齢が若すぎるというのは組織変革において大きなディスアドバンテージなのだ。そういうわけで、仮に戻っても「改革」はしない(というか、できない)だろうなと思うのである。

 

もし筑波大学でやるとしたら、「改革」ではなく、先に「改善」であろう。長期目線では理念に整合させる形での「改革」をすることになるが、それを行うだけのパワー(権力に留まらない総合力)がいまの吾輩にはない。従って、優先順位としては、現場主義でオペレーションを改善し、既存の現場戦力でうまくやれるという実績を積み重ねていく。周りと一緒に仕事をしていく過程で、吾輩が何を理想としているのかも集団で共有する機会が増えていくだろう。診療科の存在意義を再検討し、個人個人の能力を伸ばし、外的にも内的にも人のつながりを広げていき、軍資金などのロジスティクスも強化していく。それらを少しずつやっている中で、「改革するしかないでしょ!」という機運がゆっくりと盛り上がっていく。ここまでやって、はじめて「改革」をはじめることができるのだ。人間が本質的に持つ "変わることに対する恐怖" を吾輩は甘く見ていない。つまり、気持ちとしては、"変わった方が良い" では全くの不足で、"変わりたい" とか "変わるのが楽しい" というところにいる必要があるのだ。

 

要するに、「改革」はカリスマ個人の力量でなく、集団の団結の賜物である。実効性のある「改革」には集団レベルの意識変容が不可欠であり、カリスマの存在は所詮はその起爆剤に過ぎない。まして、吾輩のような凡人の場合はなおさら周囲の力に頼るところが大きい。急いではいけない。地の利と人の和を耕しながら、天の時をじっくりと待つこと。「改革」の前に、やれることはたくさんあるのだ。後輩たちには、是非理想を温め、そのために何が必要かを自省し、そのための精進を続けていただきたいと思っている。吾輩が後輩たちとの会食を楽しんでいるのは、各々の理想と精進を応援してcultivateすることに幸せを見出しているからなのだ。多忙な生活の中での良い息抜きなのである。

アイデアのつくり方

マネジメントスキルを鍛えるべく最近は色々な場所で学んでいるのだが、その中でジェームス・W・ヤング『アイデアのつくり方』(阪急コミュニケーションズ)を読むよう勧められたので早速図書館で取り寄せて読んでみた。どうも米国ではクリエイターの必読書、不朽の名作に挙がるものらしい。僅か100ページ程度の小冊子だが、書かれている内容は「如何にも、その通りだ」と納得のいくものだった。ただ、これだけ有名な作品であるということは、きっと自分もどこかで引用する機会があるだろう。備忘録的に書き留めておくわけである(図書館で借りようにも予約されていることが多く、引用したい時に速やかに引用できる保証がない……)。

 

引用文献になりうる知名度の古典なので書き抜いといた

 

どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり第二に方法である。これはアイデアを作りだす技術についても同じことである。(中略)知っておくべき一番大切なことは、ある特定のアイデアをどこから探し出してくるかということでなく、すべてのアイデアが作りだされる方法に心を訓練する仕方であり、すべてのアイデアの源泉にある原理を把握する方法なのである。(pp. 25-27)

 

イデア作成の基礎となる一般的原理については大切なことが二つあるように思われる。そのうちの一つには既にパレートの引用のところで触れておいた。即ち、アイデアとは既存の新しい要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないということである。(中略)関連する第二の大切な原理というのは、既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。(中略)いうまでもないが、この種の関連性が見つけられると、そこから一つの総合的原理をひきだすことができるというのがここでの問題の要点なのである。この総合的原理はそれが把握されると、新しい適用、新しい組み合わせの鍵を暗示する。そしてその成果が一つのアイデアとなるわけである。だから事実と事実の間の関連性を探ろうとする心の習性がアイデア作成には最も大切なものとなるのである。(pp. 27-31)

 

集めてこなければならない資料には二種類ある。特殊資料と一般的資料である。広告で特殊資料というのは、製品と、それを諸君が売りたいと想定する人々についての資料である。私たちは製品と消費者について身近な知識をもつことの重要性をたえず口にするけれども実際にはめったにこの仕事をやっていない。(中略)一般的資料を集めるという継続的過程もまたこの特殊資料を集めるのと同じように大切である。(中略)さて、この一般的資料を収集するのが大切であるというわけは、私が先にいった原理つまりアイデアとは要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないという原理がここへ入り込んでくるからである。広告のアイデアは、製品と消費者に関する特殊知識と、人生とこの世の種々様々な出来事についての一般的知識との新しい組み合わせから生まれてくるものなのである。(pp. 34-38)

 

以上がアイデアの作られる全過程ないし方法である。

第一 資料集め――諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯蔵をたえず豊富にすることから生まれる資料と。

第二 諸君の心の中でこれらの資料に手を加えること。

第三 孵化段階。そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。

第四 アイデアの実際上の誕生。〈ユーレカ! 分かった! みつけた!〉という段階。そして

第五 現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。(pp. 54-55)

 

 

P.S.

そういえば、色々な企業と付き合っている吾輩を見た母が「結局、(一部の)ベンチャーの人たちがやっていることって、所詮は仲介業であって、汗水たらしてモノを生産しているわけじゃないのよね。そういう仕事ばかり増えているのってどうなのかしら」と疑問を口にしていた。分かる! 分かりみが深すぎる! 少なくとも『現代経済学の直観的方法』を読む前の吾輩もまったく同じ疑問を感じていたのだ。資本主義という名の巨大な幻想をしっかり勉強していないと、このあたりの仕組みにはピンと来ない。

 

資本主義というのは、止まれない暴走列車のようなもので、絶えず価値を生み出し続けないといけないことが宿命づけられている。しかし、新しい価値をゼロから生み出すことは極めて困難だ。新しい価値を生み出すためには、既存の知識を複数組み合わせて —— 既存のといっても、特殊知識と一般的知識の組み合わせがよいらしいが —— イノベーションを重ねないといけない。そして、そのためには異なる価値観のコミュニティをつなぐ必要があり、ここに仲介者の存在意義がある。

 

さりとて「孤掌は鳴らず」で、汗水たらして働く人々がいてはじめてこうした仲介業も成立する。この当たり前の事実を忘れてしまうと、世界を覆うこの巨大な幻想も崩壊してしまうのではないかと危惧する気持ちもある。「アイデアのつくり方」を勉強する一方で、アイデアを生み出し続けること自体が本当に善なのかは、頭の片隅に悪魔の代弁者的な疑問としてとっておきたいところである。