つくばホスピタリストの奮闘記!

つくば市在住の感染症内科医・総合内科医によるブログ。臨床現場での雑感、感染症などの話題、日常生活について発信します。2019年は東大の感染症内科、2020~2022年は筑波大の病院総合内科に所属、2022年8月からは東京医大茨城医療センターの総合診療科で臨床助教をやっています。ここでの記載内容は個人的見解です。

いわゆる「主治医感問題」について思うところ

病院総合内科には数は少ないながらもローテしてくれる初期研修医の先生方がいるので、どう教えるのが良いものか日々悩みながら格闘するのも専攻医以上の仕事です。ここで最も悩ましく思う問題が「主治医感問題」というもの。どういうことかというと、本来は初期研修医の先生方が患者さんにとって最も身近な存在であってほしいのですが、実際には初期研修医の先生方が患者さんのことを意外と分かっていないということが割と頻繁に生じます。恐らく、この記事を読んでいる指導医の先生方の全員がうんうんと画面越しに頷いているのではないかなと推察いたします。

 

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「主治医感問題」は、臨床教育においてタブー視されている?

 

このように書くと「今どきの若者は……」的な論調にも見えてくるのですが、実際のところは今に始まった問題ではなく、我々(いまの専攻医世代)も数年前は主治医感ほぼゼロの人間だったので、この「主治医感問題」で怒られる初期研修医の先生方の気持ちがある程度は分かってしまうんですよね。試みにいくつか挙げてみます。

 

初期研修医目線のネガティブ臨床風景

1.患者さんのアウトカムに関わらず給料は変わらない。また、多くの患者さんを受け持ったところで給料は変わらないので、受け持った分だけコスパ的に損だ。

2.治療方針を考えたが、結局は上級医の方針が全て。勉強して考えても結局は患者さんのアウトカムに関われないので、働き損だ。

2’.治療方針を提案したら、カンファの場で公開処刑されて恥をかいた。若輩者ゆえに周囲から侮られているのが悔しい。

3.次から次へと患者さんが押し寄せてくる。だんだんと患者さんが敵に見えてくる。気がついたらテキパキ捌く、単純作業ゲーと化していた。

 

パッと思いつく範囲でこんなところでしょうか。その背景としては、初期研修医の先生方を守る仕組みが施設レベルでガッチリ固められ過ぎていることが挙げられると思うのですが、我々(現・専攻医)の世代とは異なり、今の初期研修医の先生方は単独で注射箋をオーダーしてはいけないことになっています(主に大学病院で)。「注射箋をオーダーできない状態で一体全体、何をどう学べと!?」とこの制度を聞いた時にはItoも困惑したものです。つまり、今の初期研修医の先生方は、我々が初期研修医だった頃以上に「主治医感」を持ちづらい環境にあるわけです。……このように考えていくと、初期研修医の先生方の間で「主治医感」が薄い問題についてはあまり強くは追及できないと思います。何しろ、巨視的には体制側の問題なのだから。

 

こういった背景事情があって、初期研修医の先生方の士気は一般的には低いと感じています(もちろん、例外は少なからずあります)。多少の偏見もあるとは思いますが、これまでもそこそこ強かった安定志向が、コロナ禍を境に一気に強まってしまったような……そんな印象です。士気が低い中でもある程度の指導は可能なのですが、やり過ぎると簡単にハラスメント(勉強したくない時に勉強させられるなど)のレベルに引っ掛かってくるところもまた、難しい要素で頭が痛い。

 

さてさて、この状況にどう対処したら良いものか。

 

色々な指導医の先生方が悩んでいる問題でしょうし、様々な方法論が提唱されているかと思います。水平的平等に基づいた教育を提唱する先生方もいらっしゃるとは思いますが、Ito的には、初期研修医の先生方については「なるようになる」で自然な流れに委ねてしまって、なるべく臨床に熱意を燃やしている学生さんに集中して指導を行うのが良いのではと感じています。初期研修医向けのレクチャーを組むと何故か学生さんの方がたくさん集まってくることを東大時代から何度も経験しているのですが、医学部の座学に角を矯められて(?)、新しい物事にチャレンジしたがっている学生さんって結構いるんですよね。目線がまっすぐ上に向かっている感じで。

 

つまり、積極的にアタックしてくる初期研修医の先生方や学生さんにはしっかりと教える。消極的な初期研修医の先生方に対しては、しょうがないので放っておく。放っておくとは無責任な……と言われそうですが、放っておいても案外大丈夫なものです。責任意識の薄い初期研修医の先生方も、医師3年目になって責任をとらないといけない立場になれば、おのずと「主治医感」のある医師になりますから。イメージとしては、「ダイの大冒険」に出てくるポップでしょうか(アバン先生は理想の教師像です)。ただし、そういったハイポ系の初期研修医の先生は、主治医としての役割を全うするにあたって必要なスキルが身に着いていない状態で専攻医になるわけなので、助言を求められたら(全てを教えずに)上手にヒントを出すことが指導医に求められているのかなとも思います。

 

……色々と考えを詰めていくと、「主治医感問題」には指導者の自惚れやパターナリズムも一部含まれているのかもしれません。『孟子』に「人の患いは好んで人の師になるにあり」というという言葉がありますが、上級医サイドも「教えてやっている」という意識から離脱していくことが大切なのでしょうね。

 

これからも、月日とともに若手の気質が変わっていくと思います。そういった変化にどう対応していくか、柔軟に若手の気質を吸収していくこともまた、リーダーの務めなのでしょう。

脱・根性内科宣言

2週間あけました。Itoです。勧誘シーズンに差し掛かり、積極的に広報し始めたところですが、そもそも病院総合内科が何を一番大切にしているかを少し語らせてください。病院総合内科が最も大切にしているのは、「患者も医者も他の医療従事者も全員が幸せな医療現場」というコンセプトです。一見当たり前でありきたりな文言ではあるのですが、よく考えてみるとこれまでの医療現場の考え方とは真逆の方向を目指しています。真逆とはどういうことだと思った皆様のために、もう少し詳しく説明しようと思います。

 

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病院総合内科は「三方よし」が当たり前の医療現場を目指します

 

医療現場においては患者さんが第一です。これは当然のことなのですが、そういった信念を謳う病院にありがちなこととして、患者さんの幸せを完璧に追及し過ぎた結果、医療従事者が疲弊しすぎるという問題点が浮上してきます。医者目線でいくと、教育病院として名高いところは数多くあるのですが、そういった場所は往々にして激務になりがちで、研修医レベルから上級医レベルまで皆が目の下にクマを作っているように見えます。あたかも、勉強することは根性を鍛えることだと言っているかのように……。

 

確かに患者さんはこの上なく大切です。ヒポクラテスの言っていた通り(言っていないとの異説あり)、“DO NO HARM(to patients)” の心構えは医療にあたっては不可欠のものです。しかし、患者さんのために医療従事者が自らを犠牲にするのも妙だと思うのです。「患者さんだけでなく、医者や他の医療従事者も人間らしい幸せを追い求めて良いのではないか?」……これが筑波大学附属病院 病院総合内科の出発点です。医療現場の外では当たり前になりつつあるこの手の考え方が、医療現場ではまだまだ普及していないところが大問題なのです。

 

では実際にどうすれば全方向的な幸せ三方よし)を実現できるかという話になりますが、内科学は先読みの学問です。常に「この先何が起こるか」を徹底的に予測して備えながら患者さんのケアにあたることで、診断面でも治療面でも無駄な動きを大きく減らすことができます。そして、患者さんのアウトカムを向上させることにもつなげることができます。医療従事者が楽することで、結果的に患者さんも楽になるという仕組みがここにあるわけですね。

♠ 医療現場に幸せをもたらす三枚の切り札

  1.  考えて、無駄な検査を避ける
  2.  考えて、無駄な治療を避ける
  3.  治療以上の予防医学

 ➡ 医療従事者の負担が減り、逆説的に(?)患者さんが健康に

 

診断面の無駄というのは、患者さんの病気を診断するのに無駄な検査を多く追加することで、それに伴う偽陽性(病気がないのに検査は陽性)の罠に引っ掛かって、さらなる検査を追加しなければならないという “無限” 地獄のことを指します。無駄な検査をたくさんすると、患者さんを不安にさせる面もありますし、過剰な医療費にもつながってしまいます。例えば「蒟蒻畑」のゼリーを食べると、とあるカビの検査が陽性になりますが、何も考えずにこの検査を提出して陽性になってしまうと、肺炎はないか、副鼻腔炎はないかと、CTなどのたくさんの追加検査をしなければいけなくなってしまいます。症状がないにも関わらずです。CTを撮影するにあたっては、検査を指示する医者だけでなく、患者さんを搬送する看護師さんや画像を準備・読影する放射線部門の方々にも大きな迷惑をかけることになります。驚くなかれ、医療機関の中ではこんな馬鹿みたいなことが日常的に、数多く発生しているのです。そういった無駄を省くだけでも、患者さんを危険にさらすことなく多くの医療従事者を幸せにすることができます(逆に、熟慮の末に診断上必要と確信した検査は、たとえ高価なものであっても躊躇せずに行う必要があります)。

 

治療面の無駄というのは、特に根拠の確立していない治療を漫然と続けることを指します。しっかりと勉強して、文献にあたって、病気に対してどの治療が有用で、どの治療が有用でないかを峻別しておくことが大切になります。これも当たり前のことだろうと思われそうですが、実際にそこまでできている医者は極めて稀だと思います(自戒を込めて)。というのも、病気に対して伝統的になされてきた治療法というものがあって、そういった治療法を患者さんに施す医者が多いのですが、その一部は必ずしも確立された治療法とは言えません。科学は流動的で、中には今後証明される治療法もあると思いますので、確立されていない治療法を行っても別に構いはしません。ただ、そういった治療を受ける患者さんの中には一定数、副作用に苦しめられる人も出てきます。何らかの問題が生じた時に、勉強している医者であれば根拠の確立していない治療法からスパッとやめることができますが、勉強していない医者の場合は必要だからと漫然と続けてしまうことになるわけです。継続的に勉強しないといけないという意味では、「無駄な治療をしない」というのも結構難しいことだと思うので、このあたりは日常学習で継続的に強化していきたいですよね。

 

そもそも、医者は治療しないで済むのがベストです。軍隊が動くのは戦争の時だから、軍隊は動かないで済むのがよいという話がありますが、医者が動くのも病人が出た時だから、病人が一切出ずに医者も動かずに済むというのが一番良いに決まっています。何が言いたいかというと、予防は確実に治療に勝るということですね。例えば高血圧症の高齢者を一般内科外来で診る時に肺炎球菌ワクチンを打っているかどうか、脳裏に浮かんでいますか? 交通外傷で運ばれてきた若年女性を診た時にHPVワクチンを打っているかどうか、一瞬でも考えたことはありますか? 高齢者が肺炎を起こすと、廃用症候群に陥って寝たきり生活を余儀なくされてしまうことがあります。前途有望な若い女性が子宮頚癌で命を落とすこともよく見かけては無念に思います。医者が「ワクチン」の4文字を思い浮かばないだけで、アウトカムに大差が現れてしまうのです。そういう意味で、血気盛んダイナミックに患者さんを治す医者も大切なのですが、静かに何事も起こさない医者(周りに病人が出現しない医者)がもっともっと評価されてよいのではと感じるのです。

 

勉強して頭を目一杯働かせ、検査や治療に熟慮を挟んだり、疾患予防に注力したりすれば、医療現場は圧倒的にはたらきやすい場所へと変貌するはずです。これが、筑波大学附属病院 病院総合内科の目指すところであり、個人個人がマッチョや超人にならなくてもちゃんと機能するような医療現場への道筋と信じています。

 

そして、「脱・根性内科」を、ここに宣言いたします。

2021年度、梅雨入り前に少し宣伝

みなさん、こんにちは。COVID-19が流行している中にも関わらず、世界情勢は大きく荒れており、その中で日本は足踏みとジリ貧の状態でございます。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。今回は久しぶりの「です・ます調」、病院総合内科宣伝回です。どんなに世界が沈鬱悲壮に包まれていても、雉鳩は何事もないように鳴き、時も澱みなく進んでいきます。来年度に向け、病院総合内科も今のうちから少しずつ宣伝していこうというわけですね。

 

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ガチガチでもゴリゴリでもない内科が目標です!

 

病院総合内科はもともと救急・集中治療科のバックアップを受けて成立している部門で、今後も協力関係は変わりませんが、来年度以降はメンバーの異動に伴って少しばかり体制が変わっていく見込みです。具体的には、もう少し内科色を前面に出して、内科専門医資格の取得や一般内科のトレーニングをやりやすい場を目指していけたらと考えているところです。

 

外科医もそうですが、内科医も忙しい職種です。特に、内科専門医になるにあたっては、専門研修の過程で内科ローテートを行わないといけないのですが、そのローテートの過程の多忙を忌避して皮膚科や眼科に流れてしまう若手医師が多いように思います。多忙を理由に内科という大きな可能性を閉ざしてしまうのは、実に勿体ない! 体力がないから内科を選ばない。育児で忙しいから内科を選べない。機会均等が望まれる令和のご時世に、このような状況はいかがなものかと思うのです。

 

これからの病院総合内科は、このような機会不均等に挑戦できる唯一の内科でありたいと思っています。そもそも、救急・集中治療科のバックアップを受けて設立された経緯から、病院総合内科はオン・オフがかなり明確になっています。現実的な数に病床数も制限されているので、制御不可能な量の仕事を抱え込む頻度も最低限に抑えられています (年末年始は例外的に、少し忙しいかもしれません)。このような環境下であれば、どんなに体が弱くても、どんなに家庭事情で働く時間が限られていても、誰でも内科医になることができます。

 

病院総合内科は臨床面だけでなく、教育や研究にも力を入れています。例えば、2020年度は病院総合内科からPubMed収載誌に20本以上の論文を通しています。その中にはトップジャーナルであるAmerican Journal of Medicine誌やClinical Infectious Diseases誌、Clinical Orthopaedics and Related Research誌なども含まれています。院内の感染対策勉強会も昨年度は病院総合内科から担当させていただきました。さらに、病院総合内科では日々、入院症例に応じた文献を共有して、常に最新知識での治療を行うことを目標にしています。まだまだ創設間もない小さな部門ではありますが、たった4人の病院総合内科は1年でここまでやってきたのです。

 

ささやかな幸せを確保した上で、思いの丈に応じて自己実現を追い求めることもできる筑波大病院の病院総合内科。この小さな診療科の雰囲気を作っていくのは、他ならぬ新米内科医のみなさんです。騙されたと思って、一度見学に来てくれる人をお待ちしております。秋葉原からつくばまで僅か45分なので、日帰り見学も簡単です。

※ 連絡先は、 naikaあっとmd.tsukubai.ac.jp

 

2020年度の診療実績

以下のリンクをご参照ください (2020年4月~2021年3月上旬)。

 

2020年度以降の文献一覧 (PubMedに2021年5月時点で収載のもの)

Nonalcoholic fatty liver disease as a risk factor for Clostridium difficile-associated diarrhea. QJM. 2020 Sep 1;113(9):699.

Cytomegalovirus seropositivity is independently associated with cardiovascular disease in non-dialysis-dependent chronic kidney disease. QJM. 2020 Sep 1;113(9):701.

Vitamin B12 deficiency and metabolism-mediated thrombotic microangiopathy (MM-TMA). Transfus Apher Sci. 2020 Oct;59(5):102872.

Tietze Syndrome and Malposition. Indian J Orthop. 2020 Jul 28;55(1):230-231. doi: 10.1007/s43465-020-00207-2.

Ludwig's angina and steroid therapy. QJM. 2020 Aug 10:hcaa239.

The characteristics of patients with possible familial hypercholesterolemia: screening a large payer/provider healthcare delivery system. QJM. 2021 Feb 18;114(1):66.

Potential survival paradox in pneumonia. Pulmonology. 2021 Jan-Feb;27(1):84.

Aortic Dissection due to Eosinophilic Granulomatosis With Polyangiitis. Cureus. 2020 Aug 31;12(8):e10167.

Critique of "Evaluation of Addition of Intravenous Metronidazole to Oral Vancomycin Therapy in Critically Ill Patients with Non-Fulminant Severe Clostridioides difficile Infection". Pharmacotherapy. 2020 Sep;40(9):984.

Delayed Cerebral Abnormalities in Acute Hyperammonemic Encephalopathy. Cureus. 2020 Sep 8;12(9):e10306.

Does alcohol consumption really affect the outcome of nontuberculous mycobacterial infections? Pulmonology. 2021 Mar-Apr;27(2):185.

A Sudden Fluctuation in Creatine Kinase: Water Intoxication and Rhabdomyolysis. Cureus. 2020 Sep 28;12(9):e10698.

Disseminated Infection Caused by Staphylococcus schleiferi: A Dangerous Wolf in Coagulase-Negative Staphylococcus Clothing. Cureus. 2020 Oct 26;12(10):e11188. doi: 10.7759/cureus.11188.

The Still Unknown Worth of a Gram Stain for Pneumonia. Clin Infect Dis. 2020 Oct 28:ciaa1642.

Is an Increase in Heart Rate the Result or Cause of Cardiac Dysfunction? Am J Med. 2021 Jan;134(1):e68.

Starvation Ketoacidosis With Hypoglycemia in a Patient With Chronic Pancreatitis. Cureus. 2021 Jan 17;13(1):e12756. doi: 10.7759/cureus.12756.

Serum uric acid levels: A surrogate marker of oxidative stress or dehydration? Eur J Intern Med. 2021 Apr;86:110.

Key to Choosing Wisely campaign: Clarifying the target for educational intervention. Emerg Med Australas. 2021 Apr;33(2):390.

Epilepsy prevention after brain abscess: Is it time to rethink the indication? Clin Infect Dis. 2021 Feb 24:ciab163.

Suvorexant Poisoning in a Patient With Cirrhosis and Renal Failure. Cureus. 2021 Apr 6;13(4):e14329.

What are the Optimal Cutoff Values for ESR and CRP to Diagnose Osteomyelitis in Patients with Diabetes-related Foot Infections? Clin Orthop Relat Res. 2021 Apr 14.

The possibility of heart failure in patients with “pneumonia” Eur J Intern Med. 2021 [online ahead of print]

The Difficulty in Interpreting the Value of C-Reactive Protein in the Context of Acute Medicine. Am J Med. 2021 [online ahead of print]

守破離考

武道・武術の世界ではよく「守・破・離」という言葉が使われている。指導者の教えを守るように稽古し、型が確立したらそれを破って、最後はそこから離れて自分のやり方を確立する上達のプロセスを表現した言葉であるが、その語源は千利休の和歌にまで遡る。

規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな
『利休道歌』

 

医の道も果てない修行、一生勉強である。ただ、Itoにとってひとつ分からなかったことがある。「守・破・離のどこまでがインプット主体で、どこからがアウトプット主体になるのだろう」とずっと疑問に思っていたのだ。ちょっとした哲学にはなるが、修行大好き人間のキャリアパスを考える上では決して避けることのできない問題である。下手にポストに就いてしまうと、もしかしたら学問に支障を生じてしまうかもしれない。ポストに就くのが早すぎると、社会的には注目されるかもしれないが、人生における最終到達点が低くなってしまう懸念があるのだ。

 

最近、タイラー・コーエンという経済学者の本をよく読む。図書館で『創造的破壊』(作品社) という本を借りられたので、今はそれを読んでいる。ローカルな文化がグロバリゼーションによって破壊される現象はこれまでも多く議論されてきたところではあるが、本当にグロバリゼーションがローカルな文化にとってマイナスになるだけなのかという問題に切り込んだ論考だ。

 

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著者は日本料理が大好きなグルメ経済学者

 

ローカルな文化を称揚することは、多様性を称揚することと密接に関わる。グロバリゼーションは個々の文化によって支えられた多様性を失うことになるのだろうか。答えは必ずしもイエスではないとこの本では論じている。グロバリゼーションによって個々の分化の中でもイノベーションが発生するため、結果的には個々の分化の中で多様性が生まれることになり、結果として以前よりも多様性が増すことになるという論調である。

 

タイラー・コーエンの本を読んでいると、ヘーゲルの『歴史哲学講義』を思い出す。ヘーゲル弁証法というのは、平たく言えば、ある物事がそれに対立する物事の要素を取り入れることでより優れた物事を生み出す (止揚する;アウフヘーベン) ことである。例えば、欧米の料理を例に、日本の料理を対立項にとってみよう。そこで欧米の料理が日本の料理人の手を借りることで、日本の欧米料理ができて、本場より美味しくなってしまう……と、そういう考え方を弁証法というのだとさ (間違っていたらすみません)。もっとも、日本の料理のレベルが世界的にかなり高水準だというのは、人に聞く限りどうも本当らしい。

 

ここで、タイラー・コーエンがあまり論じていない要素がある。著者も認めている通り、グロバリゼーションによってローカルな文化が破壊されることもあれば、止揚 (アウフヘーベン) されることもある。ところが、この明暗を分ける要素は何なのだろうかという論点が『創造的破壊』ではあまりしっかりと論じられていないのだ。Itoが思うに、「対立可能性」という要素が止揚ルートに行くに重要なのではなかろうか。文字通り、ローカルな文化が多少なりともグロバリゼーションに対立しうるかということである。

 

「対立可能性」と言った時に頭に思い浮かぶのが、東京裁判での石原莞爾の発言。東條英機との思想上の対立について問われ、東條英機には思想なんてないから思想上の対立もないと返答したことは有名な話だが、ここで強調したいのは、中身のあるものどうしでないとそもそも対立しえないということである。

 

ここまで論じると、「守・破・離」の話も少し見通しが良くなってくるのではなかろうか。つまり、「守」のプロセスを飛ばすと、(型がなくて対立が全く生じなくなるわけだから) 外から物事を上手く受け入れることが難しくなってしまい、結果として他流試合などを自分の糧にすることができなくなってしまう。ここでいう他流試合などを自分の糧にするプロセスが、ちょうど「破」に該当するだろう。「破」というのは、実はまだインプット主体 (ただし、身内ではなく外から学ぶことの方が多い) の段階なのではないかとItoはここで気づくわけである。

 

キャリアパスと修行論というところに落とし込むと、まずはひとりの師匠について徹底的に型を学ぶのが数年、ここで「守」のプロセスが終了する。その後に井の中の蛙にならずに済めば、他流試合を通じて貪欲に学ぶ期間があって、これが「破」のプロセス。もともとの型に他流を取り込んで止揚しているので、これは「創造的破壊」と呼んでも差し支えないだろう。こういった修行のプロセスを完了して世界へと戦いを挑むのが「離」ということになる (のかなぁ。未経験なので分からない)。

 

何年目までが「守」で、何年目までが「破」なのかということについては、恐らくは「離」の段階で何をしたいかに大きく依存する。「離」で本当に世界と勝負したいのであれば、「破」のプロセスの中で日本にある知恵くらいは一通り体得する必要があるだろうから、定年退職寸前まで「破」のプロセスが続くということも十分考えられる。そう考えると、万全の状態で最高の「離」を迎えるためには、健康を保つことが何よりも大切なのだと思う。実際、チャーチルが首相になったのは65歳だったし、カーネル・サンダースがKFCを創業したのも65歳だ。世界のリーダーには高齢になってから始動して偉大な足跡を残した人物が結構多い (リチャード・ニクソン『指導者とは』に詳しい)。そういえば伊能忠敬も学問の多い晩成の人だったな。心身ともに元気な状態を保ちながらも、「離」に至るまでの長い積み重ねを大切に精進していきたい。

非医学英語をどう勉強するか

先日もこのブログで書いたが、割と最近、衝撃的なことがあった。NHK語学の長寿番組であった、杉田敏先生の「実践ビジネス英語」が終わってしまったのだ。この「実践ビジネス英語」は、英語を学ぶというよりは、今後社会で一般的になっていくであろう考え方を英語で学ぶという趣が強く、どうすれば日本がもっと良い国になれるかを考えさせられるという意味でも非常に素晴らしい番組だった。聞いていてもあんまり勉強しているという感覚がなく、むしろ聞いていないと物足りなさを覚えるような、そんな内容だった。

 

この「実践ビジネス英語」終了は、インテリ層の間では「杉田ロス」としてショックでもって受け止められたわけだが、そうはいっても英語は継続的学習が大前提。後釜的な勉強法を探さなければならない。NHK語学サイドとしては、柴田真一先生の「入門ビジネス英語」を格上げすることで空いた穴を補っているが、柴田先生の講座と杉田先生の講座はそもそも目指しているものが異なる。杉田先生の「実践ビジネス英語」とはやはり異なった主旨になってしまっている (これが悪いわけではなくて、そもそも役割が違い過ぎるというだけのこと)。だから、柴田先生の新講座に乗り換えるという選択肢はなし。

 

Ito家は家族みんなが杉田先生のファンだったこともあり、今後どうやって英語の勉強を続けていくかが一家の重大案件として挙がった。実家では杉田先生のこれまでの著書をかき集めて、それを繰り返し聞いて勉強する方向に落ち着いたようである。ある日に帰省したら、杉田先生の本が大量に机の上に積み重なっていて、「これから籠城でもするつもりなのかな?」なんて笑ってしまった。Itoはというと、実家とは別に英語学習法を模索する方針にしていて、この2か月ばかり色々な教材を試しているところである。

 

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20年前の本、「杉田ロス」に落ち込む実家から送り付けられてきたよ……

 

つくば市立中央図書館では雑誌を借りることができるということで、まずは『CNN English Express』を手に取って勉強してみることにした。『CNN English Express』は、『東大理III』シリーズを読むと分かるが、東大医学部生にとっては非常に馴染みのある英語教材である。Itoは現在に至るまで手に取ったことがなかったので、恥ずかしながらの遅めデビューとなったわけだが、周りが言っていたように、確かに面白い。時事的な内容を多く学ぶことができ、諸外国が抱えている社会的問題に対する知識を深めることができる。例えば、人種差別の問題がいまだに尾を引いていて、BLM (Black Lives Matter) 問題としてちょうど激化しているさなかであるという話は、全く知らなくて勉強になった。だからこそ、ID Week 2020に参加した時も、健康格差についての講演が多かったのだと納得することができた。そして、その人種差別問題の延長線上に「人権派」とされるカマラ・ハリス副大統領の話題があるわけだ。こういった話題は日本で普通に暮らしているとまず耳に入ってこないもので、自分が如何に米国での常識に無知であるかを痛感したのである。

 

というわけで、『CNN English Express』はなかなか良い教材だと思った。ただ、これで勉強するには少し精神力を消耗する気がした。単語リストが掲載されていたり、シャドーイングを推奨していたりするところを見ると、どうしても英語を勉強させられている気持ちになってしまう。日本語訳も余計だ。英語と日本語を照らし合わせて意味を確認する作業はどうも好きになれない (英語を頭の中で和訳するのが面倒くさい)。何が言いたいかというと、Itoは英語で勉強したいのであって、英語を勉強する気はさらさらないのだ。そういうわけで、『CNN English Express』は勉強方法の候補ではあるが、最有力候補にはならなかった。

 

CNN English Express』以外の方法となると、やはり未加工の海外ニュースだ。「NHK World」や「BBC News」など色々なニュースを見て、耳慣らしには丁度いいし、新しい知識も入ってきて良いと感じたが、これらもItoにとっては不適合だった。ニュース番組は尺が様々なので、限られた勉強時間しか割けない自分にとってはなかなかにやりづらいのだ。それに、キャスターによって癖が全くなかったり、極端に癖が強かったりするため、日常学習とするには安定感がない。尺が統一されていて、同じキャスターがやっているプログラムがいい。可能であれば10分から20分くらいの尺に収まるもの。

 

そんな感じで色々と試してみて、いま一番気に入っているのが「CNN 10」という番組。まず、ニュースキャスターであるCarl Azuzさんが物凄くテンション高めの陽キャでなんだか楽しい。ニュースを理解するには歴史的背景も知らなければいけないが、Carl Azuzさんの解説はテンポが良くて、分かりやすい上に笑わせてくれる。そして、名前の通り番組の尺は10分。HP内に用意されているスクリプトをチェックして、2回聞いたとしても30分くらいで済んでしまう。おまけにキャスターのトーク力が卓越しているので、あっという間に時間が過ぎ去っていく。10分の尺の中で4本の主要なニュースを紹介しているから、内容面のバランスもとれている。「CNN 10」は元々は米国の高校生向けのニュース番組なので、米国での常識的知識もある程度補ってくれるところが素晴らしい。それにしても、最近の世界情勢は非常に物騒な感じになっていて恐ろしい…… (中国やロシアの動きは勿論、中東もいつになく荒れている)

 

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米国版の池上彰さんみたいな存在? (高校生向けニュースらしい)

 

さて、みんなはどんな方法で英語を勉強しているのだろう。無課金で済む方法であれば、色々と試行錯誤して模索し続けていきたいところだ。

読書について

ブログを書いていて思ったのですが、「です・ます」調だと歯切れよく書けない文章が出てきますね。ということで、時々「です・ます」調をやめて「だ・である」調で書かせていただこうと思います。区別としては、筑波大学附属病院病院 病院総合内科の紹介的な内容を「です・ます」調で記載して、Itoの日記的な内容 (いわゆる「誰得な」内容) を「だ・である」調で記載しようと思います。

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数日に一冊は読書する。医学書とは別個に、数日に一冊。

 

医者の仕事は非常に孤独だ。チーム医療ではあるが、患者さんの思いを受け止めて決断しないといけない場面が多く、決断する主体として、医者はとても孤独である。決断することによって、他の医療従事者からバッシングを受けることなど日常茶飯事だ。患者さんの循環動態を把握するために体重や尿量が重要になる場面があるが、そういったパラメータの測定をお願いすると看護師さんに負担がかかる。進行する肺病に苦しみながらも「自分はこの病気に打ち勝ってもう一度登山するんだ」と涙を流して訴える高齢患者さんの思いを受け止めて集中治療に踏み切ると、他部門を巻き込むことになる。そんな場面では当然、他の医療従事者からバッシングを受けることも少なくないのだが、それでも患者さんの幸せのためと思うと、そのバッシングを跳ね返して決断しないといけない時がある。医療従事者の負担を最低限にし、患者さんのアウトカムを最善にもっていくような決断。常に思案しては、何度もイメージトレーニングを重ねて、その上で決断する。決断に対するバッシングには怯まない。本当は怯んでいるけれど、絶対に怯んではいけないと自分自身を励ましている。それがみんなのためだから。

 

とはいえ。客観的にみて正しい決断をし、良い成績を残した時でさえも、バッシングを受けてしまうとやはり心が痛くなる。結果的に全員の幸福につながる道なのだと自分自身に言い聞かせていても、それでも心に染み付いたバッシングの声を綺麗に洗い流すことはできない。そんな時に、自分を育ててくれた偉大な師匠に相談したくなる。この手の孤独を癒しうる特効薬は師匠との対話に限るのである。しかし、師匠がいつも傍らにいてくれるとは限らない。それに、Itoの場合はともかく、まだ師匠に恵まれていないような人も多いのではないかと思う。だからこそ、先人の知恵が必要なのであり、読書が必要になるのだ。

 

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読書と旅を愛したモンテーニュは、人生のひとつの理想形である

 

読書というのはまさしく、温故知新の営みである。既に故人かもしれないが、自分よりもはるかに人生経験の多い先達に悩みを打ち明け、相談することができる。「読書なんかで悩みなんて解決しない」という人がいるのなら、それは読書量が足りていないから。自分のよき相談相手を見つけられていないということだ。とにかくたくさん本を読むこと。そして、自分の人生をガイドしてくれるような本を見つけること。本を買って読んでも良いけれど、人間ひとりの財力なんてたかが知れていて、あっという間に食費や家賃がなくなってしまうから、購読できる本の数も限られてくる。図書館に足を運んで、思う存分に本を借りて読みなさい。図書館であれば、何千冊読んでも無料だから。本の最初の1/3を読んで「自分には合わないなあ、得るものないなあ」と思うことも多々あるだろうけど、そんな時、借りた本であればその場で投げ出してしまえば良いだけのことだ (買った本だと元をとろうと最後まで読んでしまうだろう。だけど、そんなのは時間の無駄だ)。

 

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筑波大学附属病院病院の医図書には岩波新書が揃う

 

読むべき本を人に聞いてはいけない。人に聞いても構わないけれども、参考程度にとどめておくべきだと思う。万人受けしている本でも、名著と言われている本でも、読んでみると案外自分に合わないことなんてザラだ。人生の羅針盤にすべき本は人それぞれで良いと思っているし、良いと言われている本をappreciateできなくても恥じることはないと思う。Itoの読書経験をいくつか掻い摘んで紹介しよう。Itoは東大出身でありながら、夏目漱石の小説を読めない。何度読んでも面白くないのだ。三島由紀夫とか森鴎外は好きだが、夏目漱石だけは何を読んでもダメだった。ドラッカーの『マネジメント』を読んだが、これもチンプンカンプンだった。なんというか、「リーダーとして当たり前のことしか書いてないじゃん」くらいにしか思えなかった。ドラッカーを読むよりも歴史人物の逸話を読んでそこからリーダーの心得を学ぶやり方の方が、Itoの性に合っていたようだ。オスラー博士の『平静の心』も読んだけれど、これも「医者として当たり前の心構えだろう」くらいにしか思えなくて、むしろ貝原益軒の『養生訓』の第六巻「択医」のくだりの方が自分自身のバイブルに相応しいと感じた。結局のところ、まわりがどんなに「この本が良い」と勧めていても、それが自分の心の糧になる書物であるとは限らないのだ

 

本を食わず嫌いするのは良くない。購読する場合は (損したくないので) ある程度自分に向いているであろうジャンルを選ばないといけないが、図書館で借りる場合であればノーリスクなのだから、慣れない分野の本もどんどん読むべきである。Itoは医師4年目まで経済学や経営学に無知だったが、『現代経済学の直観的方法』という良書に出会えたことをきっかけとして、この世の中がどのように成り立っていて、どのように動いているのか、朧気ながらも知識を広げることができた。それまでも何度か経済学や経営学の入門書を読んでいたのだが、全く理解できていなかったのだ。自分に合う本を一冊見つけるだけで知識を大きく広げることができるのだから、理解できない分野に対しても諦めずに何度でもチャレンジするのが良い。それと、同じ系列の本であっても、著者が違えば相性が大きく異なってくることも付け加えたい。例えば、Itoは中野孝次の本が大好きだ。『自分らしく生きる』とか『生き方の美学』なんかはもう何周も読んでいる。中野孝次ローマ帝国の哲学者セネカに影響を受けた人物なのだが、ではItoがセネカの本を読めるかというと、案外そうでもない。『生の短さについて』とか『怒りについて』は一応読んだことがあるけれど、内容までは明確に記憶していない。そこまで心に残っていないのだ。むしろ、その弟子筋にあたる中野孝次の本の内容の方は明確に覚えている。中野孝次以外にもセネカの影響を受けている著者はたくさんいて、そういった本を読むと大抵は共感して何度も頷くのだけれど、何故かItoはセネカの本を読めない (読めるけど疲れる)。

 

名著だからといって自分の心の糧となるとは限らないとさっき書いた。ここ、少しだけ修正。レジェンド級の本は、一度くらいは読んだ方が良い読破しなくてもいいから。千年クラスのベストセラーといえば、何と言っても『源氏物語』である。日本史上どころか、世界史上でもこれに敵う作品はない。『源氏物語』を活字で読んでおらず、ドラマなどからその断片しか知らない状態だと、プレイボーイの物語くらいにしか思えないだろうが、しっかりと読んでみると姫君の心理が圧倒的なリアリティをもって描かれている。心理描写という観点では、最高の作品であることには間違いないだろう。Itoは『源氏物語』を「プライドの物語」と読み取ったが、このあたりは読む人によっても異なってくるところだと思う。『源氏物語』に限らず、『平家物語』や『常山紀談』など、優れた古典は数多い。現代語訳で構わないので、そういった本も一度くらいは手に取ってみることを勧める。何度も言うが、読んでみてダメだったら、投げ出してしまえばいいだけのこと。食わず嫌いが最も愚かしい。

 

要約。とかく孤独に打ち勝つには、読書の力が不可欠だ。

  1. 読書の中に相談に値する師匠を見出しなさい。
  2. 良い本を見つけるために、自分から探してたくさん読みなさい。
  3. 慣れない分野にも繰り返し果敢に挑戦しなさい。
  4. 相性が悪いと思った本はサッサと投げ出して次の本に進みなさい。
  5. 上記を実践するために、購読は程々に、足繁く図書館に通いなさい。

この五か条は、さらにまとめると「自分自身に正直であれ」と言っているに過ぎない。好きでもない本を頑張って読むなんて不健康だろう。かといって、好きな本しか読まないのもある種の偏食で、これも不健康だ (毎日ラーメンを食べていたら嫌な気分になるのと同じ)。好きかもしれないし、嫌いかもしれない、そんな心のそわそわする場所に試しに飛び込んでみなさい。本当に面白いものって、そういうところにこそあるものだから。好奇心の赴くままに、川が上流から下流へと澱まず流れるのと同じくらい自然に読書しなさいと言っているのだ。

 

最後に、読書に極めて向いた環境のあるつくば市に感謝。通勤路上につくば市立中央図書館があることが、ItoのQOL向上にどれほど寄与していることか。これからも、閉館日である月曜日を除けば毎日通うことになるだろう。

人生どう歩むべきか、少しばかり思案

割と最近ですが、知人の結婚式に参加しました。COVID-19流行下での結婚式。新郎新婦の新たな門出を心の底から祝いつつも、感染対策が上手くいきそうかを客観的に分析している自分に気づいては苦笑していました。テーブルどうしの距離は保たれているし、催し物もかなりシンプルになっていて、マスク着用は徹底されている。濃厚接触が生じうるのはブーケトスと会食くらいしか考えにくいな、なんて……野暮、、ですよね。

 

本当に野暮な人間で大変申し訳ありません (感染症屋さんなので仕方ないです)。ですが、結婚式がシンプルだったことで、色々と良かった部分もありました。周りの目を驚かして楽しませるような仕掛けがなくなった分、祝辞の言葉に温かい心がこもっているような気がしました。盛大なパフォーマンスがなくなった分、参加している人々の感動がとてもよく伝わってきました。形式的な挨拶が減った分、新郎新婦の立ち居振る舞いを思いをはせながら見守ることができました。むかしの結婚式はとてもシンプルで今とは比べ物にならないと、中高齢を迎える先達からはよく言われてきたものですが、今回の結婚式は「モノ中心」の結婚式ではなく「人間中心」の結婚式で、本質的な部分が大切にされていていいなと心を温かくした次第です。

 

新郎新婦の明るい未来を想像しながら、人生について少し考えていました。会食禁止の情勢の中で、せっかくテーブルを囲んで色々な人たちと話すことができるんだ。この機を逃さず信頼している人に聞いてみたわけです。「僕は今後どう生きるのがいいんだろう? 上を目指して駆けるのはいいとして、上って何のことなんだろう?」と。そうしたらシンプルに、「偉い人は2種類だよね。教授みたいな『偉い人』と、中村哲さんみたいな『偉い人』」と言われました。「世のため人のために大きく貢献していれば、仮に肩書きがなくても恥じることはないんじゃないかな」と言われたわけです。

 

専門医資格をとらないといけないのはポストのため。博士号などをとらないといけないのもポストのため。でもポストって何なんだろう。食いっぱぐれないためにポストに就くという話であれば、個人的にはあまりピンと来ないわけです。医師不足地域でアルバイトしていれば、食いつなげる程度のお金は稼げてしまうから。それに、いったんポストに就いてしまうとヒエラルキーの上を常に目指さないといけなくて、そうすると常にややこしい人間関係とかもこなさないといけないわけだから、少なくともItoのメンタル的には無理。体力的にも多分無理。ポストに就けば学会の座長とかはやらせてもらえるかもですが、そのことに果たして魅力があるかどうか…… (そして、その対価も法外に高いときた)。肩書きがなくてもPubMedに多く名前を刻むことくらい、容易いですし。Itoが内科専門医資格の取得になかなか腰を上げなかった理由が、これなのです。

 

かといって、中村哲さんのような「偉い人」……そっちを目指すのも難しい。筑波の医図書に『アフガニスタンの診療所から』が置いてあったので読んだこともありましたが、あの信念は到底常人に真似できるものではありません。けれども、肩書きよりも信念で生きている人はとても魅力的で、自分もそちら側の「偉い人」を目指したいと強く感じているわけです。そして、そんな「偉い人」の存在を認めている人が自分の身近な場所にいることは、Itoにとってとても幸せなことなのかもしれません。

 

体力的にもメンタル的にも劣る自分にできる世のため人のための道って何だろうと改めて考えるわけです。もちろん、もともとロールモデルとしてリスペクトする歴史人物はいました。幕末の長岡藩家老だった河井継之助 (詳しく知りたい方は司馬遼太郎の『峠』をどうぞ)。吉田茂の側近だった白洲次郎 (青柳恵介『風の男 白洲次郎』がおすすめ)。自分の手本としたい人物は何人か挙がるものの、現代というセッティングの中でどのように生きればよいのか上手く考えがまとまらない……このあたりに苦悩があったわけです。

 

そんなふうに自分の人生設計に鬱々としている中、偶然、自分の本棚にあった『現代の帝王学』(プレジデント社) を手に取って5年ぶりに再読しました。この本は書評を見ると難解と言われていることが多いのですが、中国古典や近代日本の経営者の逸話などが多く引用されているだけなので、言われているよりかはだいぶ読みやすいです。それで、ある一節を読んで、目から鱗が落ちました。

「幕賓」とは、その帝王を心から好いてはいるが、官に仕えて裃をきる窮屈さを嫌い、野にあって帝王にいろいろと直言してくれる人物である。

 

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経営学に近いが、経営学とちょっと違うところが好き

 

「そうか、そんな生き方があるのか。明らかに自分らしい生き方だな」と、その前後に引用されている逸話を見ながら感じ入るわけです。普段は悠々自適な暮らしをしながら自分を磨いているが、自分と理想を同じくするリーダーが立ち上がる時に、その要請に応じて自らも立ち上がって腕を振るう存在。そして、目的が達せられたら未練を残さずに元の悠々自適な生活に戻っていく。……まさしく、理想の生き方です。もし自分を招くリーダーが現れず、世に出る機会が一生なかったとすれば、それはそれで自分自身の運や実力がその程度のものだったということなので素直に諦めるだけの話ですしね。

 

そこまで分かってしまえば、後は逆算するだけ。人生設計も少し見えてきた。まずは自分と同じ理想を持つリーダーが側近に欲しい人物を想像して、それに相応しい実力をつけるべく修行すればいいわけですから。具体的には、色々な場所に行って武者修行に励むのがベストなのでしょう。肩書きを意識しない分、ノーポジションで技能を習得できる良さがあるし、何より楽しそうだ。……さて、結婚式の話からだいぶ吹っ飛んでしまいましたね。新郎新婦の未来はとても明るいですが、自分もそれに負けじと上を目指して進んでいかなくちゃなと思いを新たにした次第です (まとめたようでまとまっていない?)。